事件前の状況
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リチャードソン落馬地点付近に建てられた生麦事件之碑。1883年(明治16年)12月建立。建立者は黒川荘三、碑文は中村正直による。 文久2年(1862年)、薩摩藩主・島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光(44歳)は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いたのち(文久の改革も参照)、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を出発した。率いた軍勢は400人あまりであった。 八ツ時(午後2時)頃、行列が生麦村に差しかかった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。この日は日曜日にあたっており、4人は東海道で乗馬を楽しんでいたとも、観光で川崎大師に向かっていたともいわれる。4人は外国人居留地のある横浜・関内を出て小舟で神奈川に渡り、そこから馬に乗って東海道を江戸方面に進んでいた。
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事件前の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 07:01 UTC 版)
1881年(明治14年)10月18日、10年後の国会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日午後1時、岐阜県厚見郡富茂登村 (現岐阜市)の神道中教院(現在の岐阜公園にあった神道の布教所)にて、板垣、内藤魯一らが自由党懇親会の演説を行い、午後6時頃演説を終える。
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