長崎・熊本時代(1883年-1889年)
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「小山健三」の記事における「長崎・熊本時代(1883年-1889年)」の解説
1883年(明治16年)26歳で長崎に赴任、学務課長と長崎師範学校長を兼務し6年半に渡り長崎の教育界の組織づくりを行うことになる。長崎は江戸時代、唯一外国人渡航が認められた地であるにもかかわらず、明治時代になり一旦は設立された医学校、外国語学校、師範学校は廃止され教育が荒廃していた。赴任の翌年に長女みね(3歳)を失うが仕事に邁進し、小山はまず女子師範学校を1884年(明治17年)に男子の師範学校に併設する形で開設。1887年(明治20年)には、旧制ナンバースクールの第五高等学校の前身、第五高等中学校を設立。長崎県衛生課の管轄下にあった長崎医学校を学務課に移管し学科過程、校則を改変し予算を増やし後の長崎大学医学部の礎を築いた。 また、商業教育の重要性を説き、消滅していた長崎の商業学校を1886年(明治19年)に復活させる(現長崎市立長崎商業高等学校)。商業学校を復活させる上での一番の問題は予算であったが、小山は「五厘金」に目をつける。五厘金とは、開国以来長崎の貿易商人が利益の1,000分の5を積み立てていたものを明治政府から没収されていたものであり、管理していた貿易会所は商業学校設立への支出を承諾し復活が実現した。この年3月17日に次女・久子を授かる。 この時期、1887年(明治20年)、初代文部大臣森有礼の視察を迎えてから森との交流が始まる。長崎の「教育界」という雑誌に小山は「島国である日本に将来必要なのは海運業であり、商船学校の設立、航海教育が急務であるとの論文を投稿、これを東京の森有礼が目にし、即座に商船学校が整備される。またこの年、森有礼に随行して熊本に出張して数ヶ月後、急遽、熊本の第五高等中学校医学部校長兼任の命を受け、1889年(明治22年)まで長崎と熊本を行き来する多忙な日々を送ることになる。 1889年(明治22年)11月5日、第五高等中学校教諭として長崎を離れ熊本に赴任するが、わずか半月後に東京職工学校幹事、東京職工学校委員に任ぜられ、東京に戻ることとなる。1889年、次男・健男が、1891年、三男・恒男が生まれる。
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