長崎・熊本時代とは? わかりやすく解説

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長崎・熊本時代(1883年-1889年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:31 UTC 版)

小山健三」の記事における「長崎・熊本時代(1883年-1889年)」の解説

1883年明治16年26歳長崎赴任学務課長長崎師範学校長を兼務し6年半に渡り長崎教育界組織づくりを行うことになる。長崎江戸時代唯一外国人渡航認められた地であるにもかかわらず明治時代になり一旦は設立され医学校外国語学校師範学校廃止され教育荒廃していた。赴任翌年長女みね(3歳)を失うが仕事邁進し小山はまず女子師範学校1884年明治17年)に男子師範学校併設する形で開設1887年明治20年)には、旧制ナンバースクール第五高等学校前身第五高等中学校設立長崎県衛生課の管轄にあった長崎医学校学務課に移管学科過程校則改変予算増やし後の長崎大学医学部の礎を築いたまた、商業教育重要性説き消滅していた長崎商業学校1886年明治19年)に復活させる(現長崎市立長崎商業高等学校)。商業学校復活させる上での一番の問題予算であったが、小山は「五厘金」に目をつける五厘金とは、開国以来長崎貿易商人利益の1,000分の5を積み立てていたもの明治政府から没収されいたものであり、管理していた貿易会所商業学校設立への支出承諾し復活実現したこの年3月17日次女久子授かる。 この時期1887年明治20年)、初代文部大臣森有礼視察迎えてからとの交流が始まる。長崎の「教育界」という雑誌小山は「島国ある日本に将来必要なのは海運業であり、商船学校設立航海教育急務であるとの論文投稿、これを東京森有礼が目にし、即座に商船学校整備される。またこの年森有礼随行して熊本出張して数ヶ月後、急遽熊本第五高等中学校医学部校長兼任の命を受け、1889年明治22年)まで長崎熊本行き来する多忙な日々を送ることになる。 1889年明治22年11月5日第五高等中学校教諭として長崎離れ熊本赴任するが、わずか半月後に東京職工学校幹事東京職工学校委員に任ぜられ、東京に戻ることとなる。1889年次男・健男が、1891年三男・恒男が生まれる。

※この「長崎・熊本時代(1883年-1889年)」の解説は、「小山健三」の解説の一部です。
「長崎・熊本時代(1883年-1889年)」を含む「小山健三」の記事については、「小山健三」の概要を参照ください。

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