和田一族の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 13:40 UTC 版)
夜が明け始めた翌3日(24日)寅の刻(4時)、由比ヶ浜に集結していた和田勢の元に横山時兼らが率いる横山党の3000余騎が参着、和田勢は勢いを盛り返した。 辰の刻(8時)、曾我・中村・二宮・河村などの相模・伊豆の御家人たちの軍勢が武蔵大路から稲村ヶ崎に陸続と現れた。敵か味方か分からず幕府軍は狼狽するが、大江広元が将軍実朝の名の御教書を作成させ、使者を送り、浜辺の軍勢に示させた。御家人たちは帰趨を明らかにして、一斉に幕府方につく。 巳の刻(10時)、和田・横山勢は再び鎌倉に突入、北条泰時、時房らが守る若宮大路を中心に市街各所で激戦となった。ここでも義秀が奮戦し、先頭に立って突撃し、敵を追い散らすが、新手を繰り出してくる幕府軍に対して、和田・横山勢は次第に疲弊し、数を減らして行った。 酉の刻(18時)には、義盛の愛息義直が討ち取られ、悲嘆した義盛は、「今は戦う甲斐もなし」と声をあげて大泣きした。そこへ江戸義範の郎党が襲いかかり、義盛は討ち取られた。息子の義重、義信、秀盛も討ち死にし、横山党も潰走して勝敗は決した。常盛、時兼らは甲斐国に逃れたがそこで自害した。義秀も戦場を脱し、船6艘、兵500騎とともに安房国へ逃れたと伝えられる。朝盛も生き延びて京に逃れ、朝盛の子佐久間家盛はやはり安房国へ逃れた。
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