東慶寺入山と出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:23 UTC 版)
同時代史料としては、元和2年(1616年)10月18日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と書いている。 出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染(ちせん)し瓊山尼(けいざんに)の弟子となる。時に八歳」とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。従って、出家は大坂落城の翌年の元和2年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天秀法泰。 東慶寺は北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝わり、南北朝時代に後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、室町時代には鎌倉尼五山第二位とされた。代々関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持となっている。尼寺でこの格式ということから天秀尼の入寺する先として東慶寺が選ばれたとされる[要出典]。また師・瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘振姫に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」とする。
※この「東慶寺入山と出家」の解説は、「天秀尼」の解説の一部です。
「東慶寺入山と出家」を含む「天秀尼」の記事については、「天秀尼」の概要を参照ください。
- 東慶寺入山と出家のページへのリンク