大慧宗杲とは? わかりやすく解説

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大慧宗杲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 03:55 UTC 版)

大慧宗杲
元祐4年 - 隆興元年8月10日
1089年 - 1163年9月9日
妙喜・雲門
諡号 普覚禅師
尊称 仏日大師
生地 宣州寧国県
没地 臨安府径山寺
宗旨 臨済宗
宗派 楊岐派
  • 兜率従悦(黄龍派)
  • 圜悟克勤
  • 洞山道微
  • 泐潭文準
弟子 仏照徳光
著作 『大慧普覚禅師書』『正法眼蔵』『大慧語録』『大慧武庫』[1]
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大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国代の臨済宗楊岐派第5代の[1][2]諡号 普覚禅師 ふかくぜんじ、賜号は仏日大師大慧禅師は曇晦、号は 妙喜 みょうき・雲門[3]。俗姓は けい公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる[3]

生涯

宣州寧国県の出身[1]。16歳で出家し、 洞山道微 とうざんどうび 泐潭文準 ろくたんぶんじゅんに参禅し、 東京 トンキンにある天寧寺で 兜率従悦 とそつじゅうえつ(黄竜派)に学んだあと、 圜悟克勤 えんごこくごんのもとで悟りを開き嗣法した[2][3]紹興7年(1137年)に臨安径山能仁禅院五山の1つである 径山寺 きんざんじ)に住した[1][3]趙州無字公案参究を主張して、曹洞宗 真歇清了 しんけつせいりょう黙照禅として批判し、多くの士大夫が帰依した[2]。また、楊岐派のなかに大慧派を形成した(禅林墨跡#大慧派を参照)。

その後、張九成の帰依を得たことからその政争に連座して、衡山(現在の湖南省衡陽市)に、またのちに梅州程郷県に流罪となり、衡山では『正法眼蔵』を著す[1][2][3]。69歳の時に許されて、径山に再住し、看話禅公案禅)を挙揚した[1][3]。径山の他に 阿育王山 あいくおうざんにも住し、天子士大夫にも支持を得て、門弟は2千人を超えたという[2][4]。なお、「看話禅」の語は、もとは、南宋 宏智正覚 わんししょうがくが大慧宗杲の禅風を評したものである[4]

隆興元年8月10日1163年9月9日)、示寂[3]。著書に『大慧語録』『大慧武庫』などがある[1]。『大慧語録』30巻は大蔵経に編入された[3]

真の禅法をめぐって

曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。対立する正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるために、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判した。

この臨済宗と曹洞宗の理論的な対照は、宗杲と正覚の当時から現在の日本にまで継続している。しかし当時の中国社会では、宗杲の理論が支持を受け、臨済宗が大いに隆盛することとなった。

日本の南北朝時代の臨済僧中巌円月は、東陽徳輝を通じて大慧宗杲の法に連なる。

日本語文献

出典

  1. ^ a b c d e f g 岩波仏教辞典 1989, p. 529.
  2. ^ a b c d e コトバンク「大慧宗杲」世界大百科事典.
  3. ^ a b c d e f g h コトバンク「大慧宗杲」ニッポニカ.
  4. ^ a b コトバンク「看話禅」ブリタニカ.
  5. ^ 大慧『法語』の他に『曹渓大師伝』と『裴休拾遺問』の現代語訳

参考文献

関連項目

外部リンク

師: 禅宗臨済宗 弟子:

大慧宗杲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:29 UTC 版)

禅林墨跡」の記事における「大慧宗杲」の解説

詳細は「大慧宗杲」を参照 大慧宗杲は、圜悟克勤法嗣大慧派禅門の祖として著名。大慧は五祖法演から圜悟克勤へと継承され公案用いた指導法発展させ、公案禅大成した。また士大夫通じて社会積極的に関わろうと努めたことから、その門下には、張九成・邴などの居士たちが集まったそのような大慧の能動的な姿勢は、その思想とともに朱熹などにも大きな影響与えた朱熹若年の頃、大慧の弟子開善道謙師事し、大慧の語録愛読していたといわれ、朱熹思想には禅的な要素多分に認められる与無相居士尺牘与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、紹興25年1155年)頃、大慧が友人無相居士にあてた尺牘当時南宋は金の侵略恐れて金と和議結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・梅州から送ったもので、自らの安否伝え居士動静知りたい述べている。書風米芾蘇軾影響見られ書簡であるから自ずと率意の書である。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館国宝指定名称は大慧宗杲墨蹟尺牘 十月二日))。

※この「大慧宗杲」の解説は、「禅林墨跡」の解説の一部です。
「大慧宗杲」を含む「禅林墨跡」の記事については、「禅林墨跡」の概要を参照ください。

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