大慧宗杲とは? わかりやすく解説

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大慧宗杲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 03:55 UTC 版)

大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国代の臨済宗楊岐派第5代の[1][2]諡号普覚禅師ふかくぜんじ、賜号は仏日大師大慧禅師は曇晦、号は妙喜みょうき・雲門[3]。俗姓はけい公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる[3]


  1. ^ a b c d e f g 岩波仏教辞典 1989, p. 529.
  2. ^ a b c d e コトバンク「大慧宗杲」世界大百科事典.
  3. ^ a b c d e f g h コトバンク「大慧宗杲」ニッポニカ.
  4. ^ a b コトバンク「看話禅」ブリタニカ.
  5. ^ 大慧『法語』の他に『曹渓大師伝』と『裴休拾遺問』の現代語訳


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大慧宗杲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:29 UTC 版)

禅林墨跡」の記事における「大慧宗杲」の解説

詳細は「大慧宗杲」を参照 大慧宗杲は、圜悟克勤法嗣大慧派禅門の祖として著名。大慧は五祖法演から圜悟克勤へと継承され公案用いた指導法発展させ、公案禅大成した。また士大夫通じて社会積極的に関わろうと努めたことから、その門下には、張九成・邴などの居士たちが集まったそのような大慧の能動的な姿勢は、その思想とともに朱熹などにも大きな影響与えた朱熹若年の頃、大慧の弟子開善道謙師事し、大慧の語録愛読していたといわれ、朱熹思想には禅的な要素多分に認められる与無相居士尺牘与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、紹興25年1155年)頃、大慧が友人無相居士にあてた尺牘当時南宋は金の侵略恐れて金と和議結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・梅州から送ったもので、自らの安否伝え居士動静知りたい述べている。書風米芾蘇軾影響見られ書簡であるから自ずと率意の書である。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館国宝指定名称は大慧宗杲墨蹟尺牘 十月二日))。

※この「大慧宗杲」の解説は、「禅林墨跡」の解説の一部です。
「大慧宗杲」を含む「禅林墨跡」の記事については、「禅林墨跡」の概要を参照ください。

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