ようぎ‐は〔ヤウギ‐〕【×楊岐派】
楊岐方会
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ナビゲーションに移動 検索に移動楊岐方会(楊岐方會、ようぎ ほうえ、淳化3年(992年) - 皇祐元年(1049年)[1])は、中国の宋代の臨済宗の僧。俗姓は冷。袁州宜春県の出身。後世五家七宗の一つに数えられる楊岐派の祖として知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものを除く全てがこの楊岐派に属する。
概要
筠州にあった古刹の九峰寺で出家得度し、諸国を行脚した後石霜楚円の門下となる。師に従って潭州瀏陽道吾山、瀏陽石霜山へと移り大悟した。筠州九峰寺に戻った後、請われて袁州楊岐山の普明院の住持となる。慶暦6年(1046年)には潭州雲蓋山(望城区)の海会寺へ移り、皇祐元年(1049年)に示寂。
法嗣は白雲守端、茶陵郁山主、石霜守孫、長慶顕瓊、君山守巽、法輪惟一、欽山智因、比部孫居士および保寧仁勇がいる[2]。語録に『楊岐會和尚語録』、『楊岐會和尚後録』及び『楊岐會和尚語要』がある。
脚注
参考文献
- 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』p1119 1985年
- 伊吹 敦『禅の歴史』p86 2001年
楊岐派
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黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤、仏鑑慧懃、仏眼清遠という、三仏と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。
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