黄龍派とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 黄龍派の意味・解説 

おうりゅう‐は〔ワウリユウ‐〕【黄竜派】

読み方:おうりゅうは

黄竜宗


黄龍慧南

(黄龍派 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 02:48 UTC 版)

黄龍慧南
咸平5年 - 熙寧2年3月17日[1]
1002年 - 1069年4月11日)
諡号 普覚禅師
生地 信州玉山県
宗旨 臨済宗黄龍派
寺院 廬山帰宗寺、黄龍山崇恩寺
石霜楚円
弟子 東林常総、雲庵克文、晦堂祖心、雲居元祐
テンプレートを表示

黄龍慧南(おうりょう えなん、1002年 - 1069年4月11日)は、中国宋代臨済宗。俗姓は章。信州玉山県の出身。後世五家七宗の一つに数えられる黄龍派 (zh:黃龍派の祖として知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものがこの黄龍派に属する。大観4年(1110年)、徽宗により普覚禅師と諡された。

生涯

定水院の智鑾の下で11歳にして出家し、19歳の時に具足戒を受ける。廬山帰宗寺の自宝、廬山棲賢寺の澄諟、蘄州三角山の懐澄、衡州雲峰寺の文悦の下に参禅し、文悦により石霜楚円を紹介されてその弟子となった。景祐4年(1037年)、趙州勘婆公案より大悟する。その後帰宗寺に戻るが、寺が火災にあった折に罪に問われて入獄した。出獄後は黄檗山(江西省北西部)を経て黄龍山(江西省・湖南省・湖北省の境界付近)に移り、公案を用いて宗風を振るい湖南省や湖北省に大いに法を広めた。熙寧2年(1069年)3月17日に示寂。

主な法嗣に東林常総、雲庵克文、晦堂祖心、雲居元祐らが居る[2]。語録に『黄龍南禅師語録』、『黄龍南禅師語要』及び『黄龍南禅師書尺集』がある。

脚注

  1. ^ 『新版 禅学大辞典』p102
  2. ^ 『新版 禅学大辞典』禅宗法系譜p12

参考文献

  • 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』p1119 1985年
  • 伊吹 敦『禅の歴史』p86 2001年

関連項目


黄龍派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:44 UTC 版)

「禅」の記事における「黄龍派」の解説

宋代中期以降に、慧南の系統勢力伸長し楊岐派と共に五家肩を並べるまでになった。慧南の門下から晦堂祖心東林常聡、真浄克文が輩出し、祖心の弟子死心悟新霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦、覚範慧洪らが出て活躍し当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。

※この「黄龍派」の解説は、「禅」の解説の一部です。
「黄龍派」を含む「禅」の記事については、「禅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「黄龍派」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黄龍派」の関連用語

黄龍派のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黄龍派のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黄龍慧南 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの禅 (改訂履歴)、禅林墨跡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS