櫛笥隆望の蔵人頭就任を巡る逸話
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宝暦12年(1762年)の元日、朝廷で一つの事件が発生した。蔵人頭(頭中将)である松木宗済(後の宗美)が天皇が大床子で食事を取る大床子御膳の儀で蔵人頭が行う配膳と下膳の両方でミスを重ねて桃園天皇の怒りを買ってしまった。宗済はその後に行われる予定の小朝拝と元日節会の奉行でもあったが、その間に行われた関白家(当時の関白は近衛内前)での拝礼の際にも衣装の誤りを指摘され、着替えを口実に帰宅をして、そのまま「所労」と称して全ての役目を放棄して自宅に引き籠もってしまったのである。これを重く見た前関白一条道香の計らいで従三位に昇進させる代わりにそれを理由として蔵人頭を辞めさせられて非参議となった。 1月28日の松木宗済の蔵人頭辞任(従三位叙位)に伴って後任希望者に申文の提出(蔵人→天皇)が認められたが、これに応じたのが今城定興・正親町公功・中御門俊臣、そして櫛笥隆望の4人であった。ただし、中御門俊臣は神宮弁として伊勢神宮の遷宮に関する儀式を優先すべきとの判断から最終的に申文の提出を取りやめたため、実際に申文を提出した3人による争いとなった。当時の朝廷の人事制度では天皇が申文を見て、蔵人を関白以外の勅問衆(実質は摂家が独占している)に派遣して諮問を行い、その回答を受け後で改めて天皇が関白と勅問衆を集めて協議を行い、その最終決定を元に人事を確定させることになっていた。今回は今城定興は3人の中では一番上首(上位者)であったが、先例における就任年齢が問題視されて次回以降の候補とされた。今城定興は31歳であったが今城家には31歳以下で蔵人頭に任命された先例がないことが問題にされたのである。また、櫛笥隆望は38歳で櫛笥家では義父の隆兼が29歳で蔵人頭に任じられ、養父の隆兼も42歳と遅いながらも蔵人頭に任じられているので先例としては問題は無いが新家であることが不利とされた。前述の今城定興の年齢問題も元を辿れば、今城家も櫛笥家と同じく新家であったために全体的に就任年齢が遅かったことが響いている。これに対して、正親町公功はまだ19歳ではあったが、正親町家は過去に13名も蔵人頭を輩出した旧家で、そのうち5名が19歳以下で任じられていることから最有力とみられ、更に前関白の一条道香も強く公功を推挙して、同じ摂家の九条尚実や武家伝奏の姉小路公文にも公功の推挙を働きかけていた。しかし、2月1日になって桃園天皇は隆望を蔵人頭に任じた。当時の公家日記を総合すると、桃園天皇は初めのうちは公功を後任として考えていたが、関白の近衛内前が隆望が近習小番として皆勤していることや年齢的に次の機会があるかどうか分からないと説得したことで天皇が判断を変え、九条や姉小路も一番相応しいのは公功であるとしつつも、隆望の任命にも道理があるとして反対しなかった。現役の関白の発言力の大きさもあるものの、宝暦事件による混乱の中で家柄と天皇との関係で選ばれた蔵人頭(松木宗済)が失態を犯して失脚するという状況において、天皇を含めた朝廷の上層部は家柄的にも先例的にも正親町公功の方が相応しいと誰もが認めつつも19歳の彼ではなく、公家社会における経験が長く勤勉な38歳の隆望が選択されたのである。
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