櫛笥隆望
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櫛笥 隆望(くしげ たかもち、享保10年1月16日(1725年2月28日) - 寛政7年1月24日(1795年3月14日))は、江戸時代後期の公卿。正二位権大納言。六条房忠の子で櫛笥隆成の養子。妻は櫛笥隆兼の娘。婿養子に櫛笥隆久がいる。『公卿補任』では六条房忠の弟の六条有藤の次男とされているが、房忠が病気で籠居した後に誕生したため、家督を継いでいた有藤の次男(長男は既に生まれていた)として届け出たのだという(『六条家譜』)[1]。
注釈
- ^ 従四位下左近衛少将。
- ^ 従五位上侍従。
- ^ 櫛笥家は近衛家の家礼であるため。
- ^ 松木家は一条家の家礼。
- ^ 松木宗済の姉が桃園天皇の典侍(事実上の側室)であることを配慮されて昇進に伴う位階不相当(→官位相当制)を理由とする辞任とされたが、蔵人頭は病気などの事情がなければ参議に昇進する官職であり、参議に昇進できないということは公家社会における昇進ルートから外れたことを意味していた[3]。
- ^ 正親町家は一条家の家礼。また、同年2月に予定されていた一条家の嫡男の輝良の元服の際の理髪役に公功が内定していた。
- ^ 宝暦元年に隆望は皆勤して近習の模範になっていることを理由に褒賞を受けている(『兼胤公記』宝暦元年11月28日条)。
- ^ 自分も周囲も次の蔵人頭に選ばれると確信していた公功は自分が選ばれなかったことに衝撃を受け、天皇の叡慮は自分にあったのだと怒りを書き残している(『公明記』宝暦12年7月21日条)[6]。ただし、現存する宝暦12年の桃園天皇の御記には隆望を後任の蔵人頭に選んだ事実のみが書かれていて、その本心については触れられていない[7]。
出典
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