港町の成立とは? わかりやすく解説

港町の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:25 UTC 版)

尾道」の記事における「港町の成立」の解説

平安時代尾道小さな漁村であった考えられている。平安時代後期西國寺火災により大半消失したが、永保元年1081年白河天皇勅命により復興され、永保2年1082年白河天皇祈願所となった。この西國寺復興記した西國寺文書』内に、文献初め尾道の名が出てくる。天仁元年1108年西國寺白河法皇院政)により勅願寺官寺)となり、山陽道随一伽藍を誇るようになった尾道の北にある現世羅郡世羅町には平安時代に「大田庄」という荘園があり、平氏政権樹立され時代平重衡荘園だった。ただ荘園からの年貢運び出すための倉敷地(港)は存在していなかったため、下司尾道用いたいと嘆願上げていた。永万2年1166年重衡大田庄を後白河院寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年1169年尾道が院により倉敷地として正式に認められた。「港町尾道歴史ここから始まる。 文治2年1186年後白河院大田庄を高野山金剛峯寺)に寄進尾道高野山領となる。大田庄の年貢である米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった。また建久5年1194年高野山大田庄へ半畳12貢納命じており、この頃から筵・畳(備後表)が作られていたことになる。これらの運搬荘官の下で任務にあたっていた“問”“問丸”“舵取り等呼ばれた海運業が行っていた。文永7年1270年)から尾道の港で独自に津料関税)を徴収している。 寛元3年1245年高野山尾道和泉法眼淵信を預所として派遣し年貢米輸送管理にあたらせた。淵信はここから30年近く尾道管理し弘安9年1286年浄土寺別当となっている。この頃になると淵信は尾道権力を持つとともに高野山意思とは別に独自に動き出して莫大な富を得ていた。ただ淵信は正安2年1300年公文百姓から訴えられ預所から退いている。荒れ果てた浄土寺西大寺の定証によって中興されるのはこの時期である。 中世尾道は、現在の尾道本通りあたりが海岸線だった。長江十四日久保2つ入江があり、入江中心に港町形成された。遺物の出土状況から、13世紀から14世紀初頭尾道中心地は、浄土寺西國寺後背に持つ坊地口周辺であった考えられている。入江集落から傾斜地寺社向けて小路繋がっていた。この頃から尾道港町として大きく発展し有力な海運業者や商人出現した。そして海賊交易品強奪する盗賊ではなく水先人として通行料得ようとするもの)が現れ中には地元有力者結びつくものも現れた。 備後守護所は鎌倉時代初期には瀬戸長和庄(福山市)にあり、長井貞重治めていた。文保2年1318年西国悪党鎮圧する目的京都六波羅探題)から使節尾道派遣されたが、雑掌はそれを拒否した使節は翌文保3年1319年)に帰洛するが、その1ヶ月後に悪党がいるとして守護貞重は尾道代官清高派遣した。このときの尾道人口は5,000人を超えており、代官清高らは数々悪行をし、仏閣社殿数カ所と政所民家1,000戸あまりを焼き払った高野山が院に守護貞重の狼藉訴えたことで収まった。のちに長井氏守護所尾道置いた

※この「港町の成立」の解説は、「尾道」の解説の一部です。
「港町の成立」を含む「尾道」の記事については、「尾道」の概要を参照ください。

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