長井貞重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/04 06:31 UTC 版)
長井 貞重(ながい さだしげ[1]、文永9年(1272年)[注釈 1]- 元徳3年2月12日[1][注釈 1][5](1331年3月21日))は、鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人[1][5]。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。
注釈
- ^ a b c d e 長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える[2]。貞重の生没年については服部 1995, p. 418にも同様の言及がなされている。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[3]、時広の子・泰重の系統も北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったことが窺える[4](→北条氏#北条氏による一字付与について)。
出典
- ^ a b c d e f g h 安田 1990, pp. 431-432, 下山忍「長井貞重」
- ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、 p.15系図・16-17。
- ^ 「長井氏」 『世界大百科事典』(第2版) 。
- ^ 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年、163頁。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- ^ a b c d e f 「長井貞重」 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ 安田 1990, p. 433, 下山忍「長井泰重」
- ^ a b 西ヶ谷 1998, p. 215.
- ^ 「長井貞頼」 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ a b c d 服部 1995, p.417 系図T-1
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