港町としての発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 10:09 UTC 版)
慶長19年(1614年)に里見氏(館山藩)が改易された後、これに代わる大領主は現れず、館山の城下町としての発展は止まる。しかし、東京湾の出入り口にあたる館山湾沿岸には、風待ちの廻船が停泊し、海上交通の要衝・商業の中心地として発展した。また、江戸への鮮魚や干鰯の供給地としての役割も担った。館山は商人・職人や漁師、運送業者などが自立して運営する村・町として維持されていくことになり、西の柏崎浦から館山・長須賀・新宿・北条にかけて4㎞にわたる町場が連なった。 江戸時代の館山は、「館山三町四浦」(館山上町・館山中町・館山下町と、浦方と呼ばれた新井浦・楠見浦・浜上須賀村・岡上須賀村)および北下台(ぼっけだい)村の8か村からなり、真倉村という11か村からなる大村の一部であった。 天明元年(1781年)、稲葉正明が加増を受けて大名となり、1万石の小藩として館山藩が立藩する。ただし、藩士の大部分は江戸屋敷に勤務し、藩行政の中心も江戸にあった。2代藩主稲葉正武は、城山のふもとに陣屋を構え、藩士の屋敷地も設けられた。
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