遺物の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:47 UTC 版)
モザイクは最初、偶然に発見された。19世紀末、新たにマダバに移住した人々が家を作ろうとして古代の廃墟から切石を運び出していた際に、床を飾っていたモザイクが出現した。マダバの新住民達は、司祭らからモザイクの重要性を教えられ、以後見つかったモザイクは全て丁寧に保存された。 1896年、モザイクでできた古代エジプト・パレスチナの地図、いわゆる「マダバ地図」が発見され、1年後にその成果が出版された。この発見は古代世界の地理に関する貴重な資料として各国の学者の関心を集め、モザイクの保存と発見に情熱を注いだジュゼッペ・マンフレディ(Giuseppe Manfredi)の熱意を受け継いだ住民にも誇りを与えた。マダバはヨルダンにおける「モザイクの都」となっており、モザイクは観光の目玉にもなっている。 市の北側は古代のモザイクが集中する地域である。東ローマ帝国およびウマイヤ朝の時期、現在の市街地の北半分にはローマ街道につながる列柱道路が直交し、「地図の教会」、ヒッポリュトスの邸宅、聖母マリアの教会、預言者エリヤの教会と地下聖堂、聖殉教者教会(アル=ハディル Al-Khadir)、「焼けた宮殿」などが建っていた。 マダバのモザイク地図は6世紀のパレスチナ・エジプト地方の様々な地名を記載した地図で、正教会の聖ゲオルギウスのバシリカの床を飾っていた。2百万個の石のかけらでできたモザイクは、パレスチナの丘や谷、町や村を表している。また東ローマ時代のエルサレムを表現した現存する最古の地図でもある。街の横に「聖なる街」と書かれ、6世紀当時のエルサレムのランドマーク、例えば列柱が並び店が連なる南北の大通り(カルド・マクシムス)や、聖墳墓教会などがはっきりと描かれている。この地図は、70年のエルサレム攻囲戦で一旦破壊された後、135年に終わったバル・コクバの乱後に再建されたエルサレムの姿についての研究を進める重要な資料となった。 その他のモザイクの名品は聖母教会、使徒教会、考古学博物館などにあり、花や植物、鳥や魚、動物やその他珍しい獣の豊かな描写、神話の風景、狩り・釣り・農耕などの日常の営みなどが描き出されている。さらに5世紀から7世紀にかけてのモザイクがマダバの町中から発見され保存されている。
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