北斗遺跡
名称: | 北斗遺跡 |
ふりがな: | ほくといせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 北海道 |
市区町村: | 釧路市北斗 |
管理団体: | 釧路市(昭52・8・20) |
指定年月日: | 1977.07.14(昭和52.07.14) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S52-06-003[[北斗遺跡]ほくといせき].txt: 釧路市街地の北西約7キロメートル、釧路湿原に臨む段丘上に所在する。 昭和27年、簡易軌道敷設に伴う土取り工事によって発見され、昭和45年には釧路市教育委員会が分布調査を実施し、地表面の落ち込みの観察される竪穴住居跡386が発見された。 その後、昭和47・48年、遺跡の地形測量と1部の試掘調査によって、長さ2.5キロメートルの範囲に、9地点にわたる遺構密集地点の存在が確認された。それらは、先縄文時代最終段階に属する細石刃文化から、縄文時代早期の東釧路下層様式、前期の綱文土器様式、中期の北筒様式、後期末から晩期初頭の土器、続縄文土器及び擦文式土器の時期などいろいろな時代の遺構遺物がある。とくに第一地点では、前期の貝塚の形成が認められる。また、これまで時期的な変遷が不明瞭であった北筒様式の土器群が層位的に発見され、第1段階から第5段階にいたる内容がはじめて明らかにされるにいたった。さらに、近世アイヌの遺物の発見がある。 以上、各期にわたる豊富な遺構・遺物を擁する本遺跡は、釧路湿原をとりまく丘陵上の遺跡群のなかで中核的な性格をもつものとして重要である。 |
北斗遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/20 15:05 UTC 版)
座標: 北緯43度04分07秒 東経144度19分02秒 / 北緯43.06873613度 東経144.31718424度
北斗遺跡(ほくといせき)は、北海道釧路市北斗にある、旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代に至る複合遺跡[1]。1977年(昭和52年)7月14日に国の史跡に指定された。
概要
標高は20メートル前後で、範囲は東西2500メートル・南北500メートル。縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴建物102軒と、擦文時代の四角形竪穴建物232軒が窪んだまま残されている。
1952年(昭和27年)に簡易軌道敷設に伴う土取り工事によって発見された。その後1970年(昭和45年)には釧路市教育委員会が分布調査し、窪んだ竪穴建物跡386軒が見つかった[2]。
これまでに旧石器時代の火を焚いた跡、縄文時代の建物跡・墓や小貝塚、擦文時代の建物跡などが確認され、特に擦文時代の鉄器、繊維遺物、はた織具の一部、栽培植物の種子などが確認されている[1]。さらには、1972年(昭和47年)から73年(昭和48年)にかけ、遺跡の地形測量と1部の試掘調査が行われると、長さ2.5キロメートルの範囲に、遺構密集地点が9箇所見つかっている。旧石器時代最終段階に属する細石刃文化から、縄文時代早期の東釧路下層様式、前期の綱文土器様式、中期の北筒様式、後期末から晩期初頭の土器、続縄文土器及び擦文式土器の時期など、あらゆる時代の遺構・遺物が見つかっており、その中には近世アイヌの遺物もある[3]。釧路市北斗には現在、「史跡北斗遺跡展示館」が存在する。
釧路湿原西側(釧路市湿原展望台の南側)にあり、釧路湿原を望む高台に縄文・続縄文時代のものとともに擦文時代の建物跡が検出されており、そのうち6棟が復元されている。また、釧路湿原展望台へ至る道道53号から少々入ったところに史跡北斗遺跡展示館があり、建物の復元模型とともに続縄文・擦文時代の解説や出土品の展示があるほか、ここから木道伝いに復元建物(「擦文の村」)へ行くことができる。復元建物は、湿原遊歩道(鶴井軌道跡)からも近く、また釧路市湿原展望台とも木道で結ばれている。
脚注
- ^ a b “釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場|釧路市立博物館”. www.city.kushiro.lg.jp. 2020年12月3日閲覧。
- ^ “国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 2020年12月3日閲覧。
- ^ “北斗遺跡 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2020年12月3日閲覧。
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