遺構遺物とは? わかりやすく解説

遺構、遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:00 UTC 版)

橿原遺跡」の記事における「遺構、遺物」の解説

遺跡立地する洪積台地周辺には低湿地形成されており、縁辺部には南北細長く伸びる東西2ヶ所の縄文時代晩期包含層が遺存していた。発掘調査は主にその包含層を中心に実施されている。台地上に存在したことが予想される縄文時代遺構については、後世にほぼ完全に削平されて消滅した思われる西部包含層は長さ100m最大部分で幅約17mの範囲存在し最深部分厚さ約0.7mに及ぶ堆積層である。この遺物包含層には根が浸透したイチイガシ巨樹根が遺存し、縄文時代人工物とともに多量イチイガシ果実出土している。遺物包含層中では大型土器獣骨類のほか木炭がしばしば混在して出土し、更に磨製石斧敲石打製石斧砥石などが集中して出土する箇所がある。土壌は特に濃い黒色呈している。 西部包含層からは炉跡、集石、小竪穴などの遺構のほか、台地縁辺部で住居跡可能性がある方形竪穴遺構検出されている。炉跡は直径50cmあまりの規模の石囲み炉で、内部には木炭獣骨詰まっていたほか、敲石赤色顔料塗布した土器出土している。東部包含層は台地地形沿って平面的に細長く途中で屈曲して遺存している。包含層は西部それよりやや狭く長さ74m、幅約8m広がっており、深さ1mを超える厚い堆積層確認され部分もある。 東部包含層の一部では青色粘土層を挟んで遺物包含層上下分かれることを確認している。下層から器面調整丁寧な土器獣骨片などが集中して出土する場所がある。遺物包含層の下にはあまり遺物含まない木葉自然木堅果などを多量に含む有機質層が堆積しなかには薄く剥いだ木片編み物藤蔓括り合わせたものなどが出土している。 有機質層のさらに下には無遺物砂層や粘土層が堆積している。包含層内から出土する獣骨については、地点異にして鹿角まとまって出土する地点と、猪牙集中する地点とが確認され東部包含層からは炉跡、埋葬人骨イチイガシ集積、拳大の石を粘土固めた敷石遺構周辺石鏃などの石器石材並べた焼土ピット柱穴ピット構造物伴ったと見られる抗群などが検出された。 炉跡と埋葬人骨東部包含層の西端付近から検出されている。人骨は5体分以上あったとされているが詳細不明である。ただ、土器石器魚骨集中する中から屈葬された1体人骨発見されており、その人骨に伴って有孔土製小円板が何点か出土したこと、上部被覆した土器存在していたことが報告され、さらに人骨一部焼けたと見られる痕跡有するものが存在していたとされる。 炉跡は長さ15〜25cm程度の石を用いた一辺が40cmの規模の石囲み炉である。東部包含層の北東部では面積18m2の範囲に、8ヶ所で合計9本の直径6cm程の丸太打ち込んだ遺構検出されている。周辺からはクルミクリトチ果皮獣骨木炭などと共に木材藤蔓出土していて、水辺設けられ住居ないし作業場のような構造物可能性指摘されている。 東西包含層における出土遺物内容種類別に見ると、狩猟具漁労具および加工具など生産具のうち骨牙鏃は東部包含層からの出土圧倒的に多いが、打製石斧磨製石斧西部包含層が東部包含層の出土数を上回る。 又、敲石皮剥報告されているスクレイバー類は一部除いて大半西部包含層から出土していて出土地点の偏り指摘できる一方土器以外の土製品生産以外の石製品をみると、土冠(冠形土製品)は東部包含層のほうが2点多いが、半輪土製品石刀石棒類は、逆に約6対4の割合西部包含層が東部包含層をやや上回る土偶土玉類は東西ほぼ拮抗した出土数であり、生産以外の製品それほど偏った出土態とはなっていない。

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遺構・遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 07:41 UTC 版)

衣川廃寺跡」の記事における「遺構・遺物」の解説

東方建物跡は、一辺9メートル、高さ1.06メートル版築基壇が残る。基壇正方形であるところから塔跡とみられるが、基壇上には礎石据えた痕跡見当たらない北方建物跡は金堂とみられ、東西18メートル以上、南北15メートル、高さ1.3メートル基壇がある。基壇上には礎石根石若干残る。 このほか、寺地南西斜面瓦窯跡がある。 寺跡から出土する軒瓦文様は6種に分類される短期間造営中止した寺院にしては、瓦の種類が多いことが特色である。

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遺構・遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 14:39 UTC 版)

長者ヶ平遺跡」の記事における「遺構・遺物」の解説

遺構としては竪穴式住居跡6軒、配石遺構11か所が検出されている。住居楕円形平面で、炉は地床炉、埋甕炉、石囲炉などを設ける。 土器は、縄文前期末から中期経て後期初頭まで、東北関東北陸などさまざまな地方影響を受けたもの出土する前期末は十三菩提式(関東系)が優越し朝日下層式(北陸系)、福浦上層式(北陸系)もみられる中期前葉北陸系の新保新崎式のほか、中部高地系の集合沈線文土器もある。中期中葉は、火焔式土器著名な馬高式(越後)のほか、関東の加曽利E1式がみられる中期後葉になると、佐渡特有の藤塚式や東北大木式がみられ、後期三宮貝塚式へつながる。 土器のほか、土製品石器石製品多数出土している。土製品土偶のほか、土製円盤耳飾獣面把手などがある。石器石製品石皿磨石多量に出土しているのが特色である。他に石鏃石槍スクレーパーなどの武器利器立石石棒のような呪術的遺物、玦(けつ)状耳飾、大珠未成品なども出土している。

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遺構・遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 11:08 UTC 版)

知覧城」の記事における「遺構・遺物」の解説

上記のように火災のために当時建造物は全く残っていない。そのかわりその後ほとんど手が入れられなかったため南九州中世城郭典型例残している。 シラス台地利用した南北800メートル東西900メートル面積45万平メートルという壮大な城郭で、大きな谷を空堀として利用し本丸以外の曲輪二重の深い空堀で更に囲まれていた。中核となる「本丸」の他「今城」「の城」「弓場城」などの曲輪と「式部殿城」「児城」「東之栫」「西之栫」「南之栫」「伊豆殿屋敷」等の出城から成り立っていた。 近年の発掘調査15世紀-16世紀中国陶磁洪武通宝東南アジア生産され陶器出土した

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遺構・遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 09:06 UTC 版)

井野長割遺跡」の記事における「遺構・遺物」の解説

土器は、盛土周辺からは縄文後期中葉から晩期前葉のものが大量に出土するが、中央窪地からの土器出土少なく出土するものは晩期土器である。住居跡は、盛土下層盛土外側からは検出されるが、中央窪地には見出されない。以上のことから、中央の窪地広場のような役割果たし、その周囲ムラ形成されいたものとみられる2002年第5次調査では、小学校校地内調査区から、貝塚検出された。貝種は大部分ヤマトシジミであり、他にイノシシシカなどの動物骨、エイクロダイボラなどの魚骨や、ウロコ除去するための貝刃も出土した2003年第8次調査では、小学校校地内調査区設定したその結果表土20センチまでは学校建設影響破壊されていたが、その下層には縄文時代遺構良好に残ることが判明した。この調査結果遺跡北西から南東向けて遺構存在しない帯状空白地帯存在することがわかった。これは縄文時代「道」の跡とみられる。道を境に南側には多数土壙があり、北側には柱穴とみられるピット群があった。土壙は墓壙または貯蔵穴とみられ、北側ピット群は住居跡とみられる。このことから、道をはさんで住居群と墓群が配置されるという、当時ムラ構造垣間見えた。2001年第4次調査では、遺跡南端から南側の谷へ通じる溝の跡が検出されており、これも道の跡とみられる南側の道の傍らには土壙群がみられ、埋甕もあった。

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遺構・遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 02:32 UTC 版)

羽田八幡宮文庫」の記事における「遺構・遺物」の解説

羽田八幡宮のうち、次の3件が文庫関連有形文化財(国の登録有形文化財)として、平成12年2000年12月4日登録されている。 羽田八幡宮社務所離れ旧羽田野家住宅主屋) - 羽田八幡宮文庫主宰し神職羽田野氏の住宅主屋である。文化9年1812年)に渥美半島百々(現、田原市)から移築されたもので、さらに大正時代終わり現在地移築された。木造平屋建の片入母屋造桟瓦葺、南面縁側先に土庇設けている。10主室床棚構成特徴があり、登録理由は「造形規範となっているもの」である。 羽田八幡宮蔵旧羽田八幡宮文庫) - かつての文庫であり、建物詳細は上に記載通りである。東面1間幅の戸口設けて社務所離れ繋げている。登録理由は「国土歴史的景観寄与しているもの」である。 羽田八幡宮門旧羽田八幡宮文庫正門) - 現在の羽田八幡宮参道中ほど西方面して建っている。正面全幅は約10尺で中央1間分が通路となっており、両側それぞれ2尺づつは腰を板張にした土壁となっている。桟瓦葺の切妻屋根渡した簡素なつくりの腕木門であるが、文庫入り口を示すものとして貴重な遺構である。登録理由は「国土歴史的景観寄与しているもの」である。 遺物は、蔵書一式のほか、羽田野敬雄日記書留控』はじめ羽田自筆書留類、三条実万の筆になる「積中外諸典」の額、貸出用の箱などであり、貸出用箱が羽田八幡宮所蔵であるほかは、現在、豊橋市図書館管理するところとなっている。令和2年2020年)には、蔵書掛軸書函書簡など9,200点が、「羽田八幡宮文庫旧蔵資料」として豊橋市有形文化財一括指定されている。 羽田八幡宮社務所離れ旧羽田野家住宅主屋羽田八幡宮蔵旧羽田八幡宮文庫羽田八幡宮門旧羽田八幡宮文庫正門

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