衣川廃寺跡
名称: | 衣川廃寺跡 |
ふりがな: | きぬがわはいじあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 滋賀県 |
市区町村: | 大津市堅田衣川町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1977.03.08(昭和52.03.08) |
指定基準: | 史3 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S51-12-013[[衣川廃寺跡]きぬがわはいじあと].txt: 琵琶湖の西岸、[[堅田]かただ]の町の南方志賀丘陵の先端に、飛鳥時代末に営まれた寺院跡である。滋賀県教育委員会が昭和50年発掘調査した結果、極めて特異な伽藍配置をもつ寺院の全容が明確となった。 本寺院跡は、小丘陵上に占地し、まずその東縁近くに塔跡と思わせる基壇を残し、またその北西に金堂跡かと想定される基壇をとどめている。塔跡は、1辺14メートル、高さ1.25メートルを測る版築の見事な基壇であり、その上面に礎石根石が残存し、塔心礎の抜き穴などが残されていた。また金堂跡は現在東西18メートル、南北18メートルの版築の基壇を残しているが、旧規はやや東にのびるものであったと考えられ、基壇上面には礎石根石が残されていた。塔、金堂とも基壇縁化粧は見られず、また階なども現状では指摘できない。塔跡の西方にも建物の遺構はなく、同様なことは講堂、その他の諸堂、及び中門、南門などについても調査を行ったが、全くその遺構は丘陵上には存在しなかった。 従って、本寺跡は丘陵上に塔跡、金堂跡のみを具えるという極めて特異な伽藍配置をとるものであることがほぼ判明したのである。 なお、この伽藍のある小丘陵の南西縁、本寺院跡の寺域内に本寺の屋瓦を焼成した1基の登窯が発見されており、両者の関連もまた注目されるところである。いずれにせよ、飛鳥時代末に創建された極めて特異な伽藍配置をもつ地方寺院跡の一つとして重要なものである。 |
衣川廃寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 07:41 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動衣川廃寺跡(きぬがわはいじあと)は、滋賀県大津市衣川2丁目にある古代寺院の遺跡。1977年3月8日に国の史跡に指定された。
概要・立地
衣川廃寺は、琵琶湖の幅がもっとも狭隘になる付近、志賀丘陵の先端部にあり、丘陵の尾根を削平・盛土して整地して寺地としている。寺地は標高100メートル前後、付近の水田との比高3メートルほどに位置する[1][2]。
寺は7世紀半ばすぎ、飛鳥時代後期の建立とみられ、近江最古の寺院の一つであるが、2棟の建物跡が残るのみであり、伽藍は未完成である。立地や出土瓦の文様等から、和邇氏所縁の寺とみられるが、近江大津宮の廃都(672年)とともに伽藍造営が中断されたものとみられる[1][2]。
遺構・遺物
東方建物跡は、一辺9メートル、高さ1.06メートルの版築基壇が残る。基壇が正方形であるところから塔跡とみられるが、基壇上には礎石を据えた痕跡が見当たらない[1][2][3]。
北方建物跡は金堂とみられ、東西18メートル以上、南北15メートル、高さ1.3メートルの基壇がある。基壇上には礎石や根石が若干残る[1][2]。
寺跡から出土する軒瓦の文様は6種に分類される。短期間で造営を中止した寺院にしては、瓦の種類が多いことが特色である[1][2]。
脚注
参考文献
- 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 『滋賀県文化財学習シート:衣川廃寺跡』 滋賀県総合教育センター、2004年。
- 滋賀県総合教育センターサイトからダウンロード可。
- 財団法人滋賀県文化財保護協会『財団法人滋賀県文化財保護協会紀要1』財団法人滋賀県文化財保護協会、1988年。
- 細川修平「衣川廃寺の再検討」『財団法人滋賀県文化財保護協会紀要1』、1988年、49-65頁。 (参照:[2])
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