尼崎城の遺構・遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:27 UTC 版)
廃城令による競売のため、尼崎城郭図(尼崎市指定文化財)が作成されており、本丸御殿内の藩主の私邸部分や城郭内にあった武家屋敷は描かれておらず、競売で売却する建物に番号を振り上段にはそのリストが表示されていることから、城内の武家屋敷以外は競売により売却されたと思われる。藩主の菩提寺である深正院が買収し移築した「金之間」以外の建物は行方が分かっていないが、父が尼崎藩士であった福田松蔵が明治7年(1874)に描いた「尼崎城之画」に儒学者の中谷雲漢が加えた賛に、前年に廃城となった尼崎城が朝廷のものとなり、大阪の商人により解体され、船で持ち出される情景が記されていることから、尼崎市以外に移築されたと考えられる。深正院に移築された「金之間」は、第二次世界大戦で焼失している。 現在、尼崎城の地上の遺構としては、確認できるものは少ないが、尼崎市教育委員会は20回以上の発掘調査を実施しており、本丸御殿跡等建物遺構や、外堀として利用されていた庄下川の堤防下より石垣の一部の遺構や、その他多数の遺物が出土している。中央図書館に近い庄下川の川底からは、一列に並んだ石の列が発見され、橋脚を固定する石であろうとされている。また尼崎城址公園の模擬城郭に利用されている石の中にも、矢穴石という石切の際の矢跡が残る石が幾つも見ることができる。公園の石垣に関しては、公園の建設時に使い道がなくなって保管された石を再利用したものと想像される。 発掘調査に関しては、尼崎市立地域研究史料館で調査報告書を見ることができ、出土した遺物に関しては尼崎市立歴史博物館にて閲覧することができる。
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