広畑貝塚
名称: | 広畑貝塚 |
ふりがな: | ひろはたかいづか |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 茨城県 |
市区町村: | 稲敷市飯出ひろ畑 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1982.02.27(昭和57.02.27) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S52-06-008[[広畑貝塚]ひろはたかいづか].txt: 広畑貝塚は、霞ヶ浦の南西岸、東に野田奈川(桜川)、西に小野川の河口に囲まれた丘陵の裾に位置する貝塚を伴う縄文後期から晩期前半の集落跡である。標高約1.5~2.0メートルの低地に貝層が分布し、北側の水田に遺物包含層が続いている。 明治年間以来、完形土器をはじめとする多数の遺物の発見地として有名であった。古くは、江見水陰・清野謙次・池上啓介等の調査報文があり、戦後、和島誠一・直良信夫・吉田格・近藤義郎等による発掘調査が実施されている。出土品には、後期後半の良好な土器群をはじめ、晩期初頭にいたるまでの各種の遺物がある。とくに土偶・土版・耳飾などの土製品及び貝輪・尖頭器・骨鏃・装身具などの骨角製品などの量の多いことが注目される。 とくに後期末から晩期初頭に属する無文薄手作りの深鉢形土器の一群の存在は注目されるものである。即ち、炭酸カルシウムが固化して付着していることや、器壁が薄く剥離する状態などが、古墳時代以降の製塩土器と酷似しており、既に縄文時代に製塩が行われていたのではないかとする説の根拠になっているものである。このことは、縄文時代の生産活動を解明する上で重要である。 |
広畑貝塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 08:04 UTC 版)
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広畑貝塚(ひろはたかいづか)は、茨城県稲敷市飯出ひろ畑にある、縄文時代後期から晩期前半の貝塚・集落跡である。1982年(昭和57年)2月27日、国史跡に指定された。
概要
霞ヶ浦の南西岸、東に野田奈川(桜川)、西に小野川の河口に囲まれた丘陵の裾に位置する貝塚を伴う縄文後期から晩期前半の集落跡である。標高約1.5~2メートルの低地に貝層が分布し、北側の水田に遺物包含層が続いている[1]。
明治年間以来、完形土器をはじめとする多数の遺物の発見地として有名であった。古くは、江見水陰・清野謙次・池上啓介等の調査報文があり、戦後、和島誠一・直良信夫・吉田格・近藤義郎等による発掘調査が実施されている。出土品には、後期後半の良好な土器群をはじめ、晩期初頭にいたるまでの各種の遺物がある。とくに土偶・土版・耳飾などの土製品及び貝輪・尖頭器・骨鏃・装身具などの骨角製品などの量の多いことが注目される[1]。
とくに後期末から晩期初頭に属する無文薄手作りの深鉢形土器の一群の存在は注目されるものである。即ち、炭酸カルシウムが固化して付着していることや、器壁が薄く剥離する状態などが、古墳時代以降の製塩土器と酷似しており、既に縄文時代に製塩が行われていたのではないかとする説の根拠になっているものである。このことは、縄文時代の生産活動を解明する上で重要[1]。
脚注
- ^ a b c “国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2021年1月26日閲覧。
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