ブルゴーニュ継承戦争
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「ブルゴーニュ公国」の記事における「ブルゴーニュ継承戦争」の解説
「ブルゴーニュ継承戦争(英語版)」も参照 マリー女公は、各都市から突進公への反発が噴出し、2月11日には、已む無く大特許状を容認した。忠臣であるウィレム・ユゴネ(オランダ語版)及びランバークール伯ギィ・ファン・ブリモー(オランダ語版)が処刑され、義母マルグリットとも引き離され、孤立無援となった。また、1~6月までの間に、フランス王ルイ11世もブルゴーニュ公領(フランシュ=コンテ)、エノー、ネーデルラントに近いピカルディーやアルトワを占拠した。 そこで、マリーは婚約者マクシミリアンに婚約の履行を求め、二人は8月に結婚した。1479年8月7日、マクシミリアンはギネガテの戦い(英語版)でフランス軍を撃退し、安定的な統治を行うかに見えた。 しかし、1482年3月にマリーが落馬事故で急逝すると、フランス王の煽動も相まって再び反乱が起き、12月に締結されたアラスの和約(英語版)によって、フランス側への譲歩を余儀なくされる。嫡男フィリップ(美公)の摂政の地位を事実上剥奪されながらもマクシミリアンは戦いを継続することとなった。
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ブルゴーニュ継承戦争
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「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ブルゴーニュ継承戦争」の解説
1477年1月5日、シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死し、ブルゴーニュ公国内は大混乱に陥った。国内では専制的だったシャルル突進公への不満が蓄積していた貴族や商人が権利の拡大を画策し、さらにフランス王ルイ11世もブルゴーニュ公爵領・フランシュ=コンテを接収し、ネーデルラントに程近いピカルディー、アルトワを占拠した。こうした事態に、ネーデルランド各地でも反乱が起こり、同年2月11日には、大特許状を容認せざるを得なくなる。忠臣を処刑され、義母マルグリット妃とも引き離され孤立無援のマリーは、3月26日付でマクシミリアンに救いを求める手紙を出す。 何とか現金を都合した皇帝は、5月21日にマクシミリアンをウィーンから見送る。マクシミリアン一行は各地で歓迎を受け、特に大都市ケルンでは、後に将軍として活躍するクリストフ・フォン・バーデンやアルブレヒト・フォン・ザクセンと初めて対面する。ケルンで資金が尽きるが、マルグリット妃の援助により窮地を脱し、8月18日深夜、一行はヘントに到着し、マリーと対面する。2人は言葉こそ通じなかったが、互いに愛しあい、その夜のうちに床入りしたことを記録する文書が残っている。翌8月19日早朝、同地の聖バーフ大聖堂で挙式した。 結婚式の10日後から、マクシミリアンはマリーとともに領内を歴訪する。裕福な美術品や宝飾品に比し、現金は不足している現状を目の当たりにし、次々に資産を売却せざるを得なかった。結婚2か月後には、逆に父帝に対し金銭援助を求めている。また、ルイ11世に対しては毅然とした態度で臨み、ネーデルラントの州議会や皇帝フリードリヒ3世の支援を迅速に取り付けたため、ルイ11世は9月18日に休戦と都市の返却を申し出た。 当初、マリーとは上流階級の教養語であったラテン語でコミュニケーションを取っていたが、安定な統治のために間もなくマリーからフランス語を、宮廷付きの婦人から現地語のフラマン語を学び、やがてそれぞれの言語を母国語のように理解し、読み書き出来るようになった。 翌1478年5月、ルイ11世は休戦を破ってエノー(独:ヘンネガウ)に侵攻して戦端を開く。これがマクシミリアンにとって初陣となるが、勝利を収める。6月22日には長男フィリップが誕生した。 しかし、ルイ11世は通商に介入したり、国境近くの穀物を刈り取るなどし、ブルゴーニュ公国では反仏の機運が高まっていた。そして、フランス軍はアルトワに侵入し、1479年8月7日にギネガテの戦い(英語版)が行われた。この戦いでは、歩兵の密集方陣を採り、ルイ11世のフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。 マクシミリアンはフランドルおよびブラバントから兵を召集したが、軍事展開上必要なスイス傭兵を確保出来ず、現在の南ドイツからも傭兵を募り、スイス式の武装と戦陣の展開の訓練を施した。これがランツクネヒトの始まりといわれるが、この名称が用語として定着するのは1480年代半ばである。給金の支払いが困難なため、戦いに勝利しながらも、フランス軍を追撃することはできなかった。 こうしてマクシミリアンは、いまだ国内の不安要素を完全には払拭できないものの、シャルル突進公戦死以来の混乱を収拾し、公国の統治に成功した。
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