ブルゴーニュ継承戦争とは? わかりやすく解説

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ブルゴーニュ継承戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:24 UTC 版)

ブルゴーニュ公国」の記事における「ブルゴーニュ継承戦争」の解説

「ブルゴーニュ継承戦争(英語版)」も参照 マリー女公は、各都市から突進公への反発噴出し2月11日には、已む無く大特許状容認した忠臣であるウィレム・ユゴネ(オランダ語版)及びランバークール伯ギィ・ファン・ブリモー(オランダ語版)が処刑され義母マルグリットとも引き離され孤立無援となったまた、1~6月までの間に、フランス王ルイ11世ブルゴーニュ公領(フランシュ=コンテ)、エノーネーデルラントに近いピカルディーアルトワ占拠した。 そこで、マリー婚約者マクシミリアン婚約履行求め二人8月結婚した1479年8月7日マクシミリアンはギネガテの戦い英語版)でフランス軍撃退し安定的な統治を行うかに見えた。 しかし、1482年3月マリー落馬事故急逝すると、フランス王煽動相まって再び反乱起き12月締結されアラスの和約英語版)によって、フランス側への譲歩余儀なくされる嫡男フィリップ(美公)の摂政地位事実上剥奪されながらもマクシミリアン戦い継続することとなった

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ブルゴーニュ継承戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)

マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ブルゴーニュ継承戦争」の解説

1477年1月5日シャルル突進公はナンシーの戦い戦死しブルゴーニュ公国内は大混乱陥った国内では専制的だったシャルル突進公への不満が蓄積していた貴族商人権利拡大画策し、さらにフランス王ルイ11世ブルゴーニュ公爵領・フランシュ=コンテ接収しネーデルラント程近いピカルディーアルトワ占拠したこうした事態に、ネーデルランド各地でも反乱起こり同年2月11日には、大特許状容認せざるを得なくなる。忠臣処刑され義母マルグリット妃とも引き離され孤立無援マリーは、3月26日付でマクシミリアン救い求め手紙を出す。 何とか現金都合した皇帝は、5月21日マクシミリアンウィーンから見送る。マクシミリアン一行各地歓迎を受け、特に大都市ケルンでは、後に将軍として活躍するクリストフ・フォン・バーデンやアルブレヒト・フォン・ザクセンと初め対面するケルン資金尽きるが、マルグリット妃の援助により窮地脱し8月18日深夜一行ヘント到着しマリー対面する2人言葉こそ通じなかったが、互いに愛しあい、その夜のうちに床入りしたことを記録する文書残っている。翌8月19日早朝同地聖バーフ大聖堂挙式した。 結婚式10日後から、マクシミリアンマリーとともに領内歴訪する裕福な美術品宝飾品比し現金不足している現状目の当たりにし、次々資産売却せざるを得なかった。結婚2か月後には、逆に父帝対し金銭援助求めている。また、ルイ11世に対して毅然とした態度臨みネーデルラント州議会皇帝フリードリヒ3世支援迅速に取り付けたため、ルイ11世9月18日休戦都市返却申し出た当初マリーとは上流階級教養であったラテン語コミュニケーション取っていたが、安定統治のために間もなくマリーからフランス語を、宮廷付き婦人から現地語のフラマン語学び、やがてそれぞれの言語母国語のように理解し読み書き出来ようになった。 翌1478年5月ルイ11世休戦破ってエノー(独:ヘンネガウ)に侵攻し戦端を開く。これがマクシミリアンにとって初陣となるが、勝利を収める6月22日には長男フィリップ誕生した。 しかし、ルイ11世通商介入したり、国境近く穀物刈り取るなどし、ブルゴーニュ公国では反仏の機運高まっていた。そして、フランス軍アルトワ侵入し1479年8月7日にギネガテの戦い英語版が行われた。この戦いでは、歩兵密集方陣を採り、ルイ11世フランス騎士団撃破しフランドル領土確保したが、これがハプスブルク家フランス王家の確執始まりとなったマクシミリアンフランドルおよびブラバントから兵を召集したが、軍事展開上必要なスイス傭兵確保出来ず現在の南ドイツからも傭兵募りスイス式武装戦陣の展開の訓練施した。これがランツクネヒト始まりといわれるが、この名称が用語として定着するのは1480年代半ばである。給金支払い困難なため、戦い勝利しながらも、フランス軍追撃することはできなかった。 こうしてマクシミリアンは、いまだ国内の不安要素を完全には払拭できないものの、シャルル突進戦死以来混乱収拾し、公国統治成功した

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