和解の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 17:13 UTC 版)
1989年にビロード革命が起こり、ヴァーツラフ・ハヴェルがチェコスロバキア大統領となると、チェコスロバキアと西ドイツの関係改善がすすめられ始めた。ハヴェル大統領は集団的罪の観点でズデーテン・ドイツ人を戦後断罪したことは許されることではないとして、ドイツ人追放について初めて謝罪した。1990年からはチェコスロバキアでズデーテン・ドイツ人問題解決のため、個人ではなくドイツ連邦共和国政府のみを相手に行うと発表した。この背景にはランツマンシャフトがベネシュ布告の廃止と財産の返還、さらに故郷に対する完全な権利回復を求めてきたことがあったという。チェコスロバキア政府はベネシュ布告の廃止には反対し続けており、その後の基本方針となった。 1990年10月3日にドイツ再統一が行われてドイツが統一されると、関係正常化の動きが加速された。ドイツ人が正式な手続きによる「移送」がなされたとするチェコスロバキアと、ドイツ人は「追放」されたとするドイツの立場は異なっていたが、2月27日に締結されたドイツ・チェコ善隣友好条約では「追放」が採用された。これにはドイツ側がチェコスロバキア側の表現の隙を突いてミュンヘン協定の有効性を議題に持ち込み、協定問題で譲歩するかわりに補償問題が存在することと「追放」表現を勝ち取ったとも言われている。1993年のビロード離婚によって成立したチェコ共和国も善隣友好条約を引き継いだが、ランツマンシャフトをはじめとするズデーテン・ドイツ人団体は補償とチェコ政府との直接交渉を要求し続けていた。
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