和解としての「和与」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:16 UTC 版)
一方、訴訟における和解の意味での「和与」という言葉の具体的な発生時期については、必ずしも明らかではない。だが、訴訟を終結させるための条件もしくは結果として贈与としての和与を行う例は平安時代末期には既に見られており(例:相馬御厨の領主の地位を巡って伊勢神宮禰宜間で交わされた和与状(『櫟木文書』「仁安二年六月十四日付皇太神宮権祢宜荒木田明盛和与状」(『平安遺文』第7巻3425号所収))、訴訟の和解のために双方の合意に基づいて行われる権利の贈与を意味する「和与」から派生して、訴訟における和解(手続上は原告側の訴え取下)そのもの意味でも「和与」という言葉が用いられたと考えられている。 鎌倉幕府の成立は訴訟の解決手段としての和与の役割を強めることとなる。鎌倉幕府と「御恩と奉公」と呼ばれる主従関係で結ばれた御家人が受けていた御恩の実態は、幕府から与えられあるいは権利を保障された所領及びこれに付随する所職(職の体系を参照のこと)で、彼らはそこから発生する経済的な権限を生活の糧として暮らしていたことから、その権利を巡る紛争が生じて幕府への訴訟が行われた。これは荘園に対する地頭の設置や承久の乱による新補地頭の成立によって、所務や土地支配を巡る荘園領主と地頭である御家人あるいは御家人同士の争いに一層拍車がかかっていった。そこで執権北条泰時の時代に訴訟制度が整備され、公家法の要素を一部取り込みながら『御成敗式目』を制定した。とは言え、本来軍事組織であった鎌倉幕府には司法機関としてのシステムとそれを築く環境が十分には備わっていなかったために訴訟の処理には限界があり、訴訟当事者双方の経済的負担も大きかった。そのため、訴訟当事者において和与によって訴訟を早く解決させる動きが広がり、鎌倉幕府としても訴訟の迅速な処理を図るために和与による訴訟の早期終結を直接的あるいは間接的に推奨したことから、和与による訴訟の和解・終結が図られるようになった。 和解の和与は、訴訟で判決が出される前の段階(いずれの段階でも可能)に中人と呼ばれる第三者によって和与条件の摺り合わせが行われる。中人は原則として訴訟と直接関係の人物が務め、訴訟当事者双方が同地域の住人ある場合には、当該地域の有力者が立つことが多かった。訴訟当事者がこれに同意した場合には、相互に訴訟に関する合意の意思を交わした和与状を作成し、訴人(原告)は論人(被告)に対して和与状をもって訴訟を止めることを約束する。その後、訴人と論人が同一内容の2通の和与状に署判を行ってそれぞれ1通ずつ交付され訴訟取下が行われることで和与は成立する。ただし、これは「私和与」と呼ばれ当事者間のみの合意であったことから、必ずしも強制力がなかった。従って、訴人が判決が出される前に取下が行われないまま判決が出された場合には私和与は無効とされた。そのため、訴人と論人の双方が訴訟機関(鎌倉幕府では鎌倉・六波羅探題・鎮西府)に対して2通の和与状を提出し、訴訟機関の審査の結果正当な和与と認められた場合には和与状に訴訟担当奉行の証判が押され、和与状の内容を承認したことを示す裁許状・下知状が訴訟当事者双方に交付されることで法的拘束力を有することとなった。和与状への奉行の署判と裁許状・下知状の交付によって訴訟機関は当該訴訟の終結を宣言した。幕府の許可を受けた和与は「下知違背之咎(げちいはいのとが)」の法理によって保障され、当事者が和与の条件に違反をすれば所領没収などの刑罰が課された。また、後日越訴や別の訴訟が発生した場合でも前回の和与状の内容がそのまま根拠として裁決された。なお、荘園内における地頭と領家の紛争において、和与の条件として下地中分に代表される下地(土地)・上分(得分・収益)の中分が行われる場合(折半もしくは1:2の分割)を特に和与中分(わよちゅうぶん)と称し、こうした紛争は荘園の所務に関する契約を巡って生じることが多かったことから、その結果として成立した和与を所務和与と呼んだ。
※この「和解としての「和与」」の解説は、「和与」の解説の一部です。
「和解としての「和与」」を含む「和与」の記事については、「和与」の概要を参照ください。
- 和解としての「和与」のページへのリンク