河上五ヶ関を巡る抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 23:02 UTC 版)
ところが乱後、筒井氏内部では順覚が義教から与えられた摂津国淀川河上五ヶ関代官職を巡って順弘と光宣との間に対立が起き、嘉吉元年(1441年)、光宣は順弘を追放した。代わりに弟で相国寺の僧だった順永が還俗し、惣領になった。初め光宣は反対していたが、和睦して代官職を獲得した(順永は官符衆徒になった)。その後順弘は越智家栄の支援で嘉吉3年(1443年)に筒井城に復帰するも家臣に背かれ殺害された。 しかし、大和への勢力拡大を図る管領畠山持国、河上五ヶ関の直接支配を狙う大乗院門跡経覚は光宣と対立し、9月には経覚側の豊田頼英・古市胤仙・小泉重弘らの攻撃を受けて光宣は没落、筒井城に逃れ、11月には光宣治罰の綸旨が発給された。しかし、翌文安元年(1444年)初頭に経覚・畠山方は筒井城を攻めるが光宣は守り抜き、更に文安2年(1445年)に経覚派の鬼薗山城を落とし、順永は官符衆徒に返り咲き、光宣は河上五ヶ関の代官職を回復し、幕府の赦免まで得た。その後は弟の実憲、尊覚を失う等痛手を被るが享徳2年(1453年)に経覚方の有力武将・古市胤仙が死去すると、経覚方と筒井方の和解の動きが進み、翌年に経覚派と筒井氏は和睦した。
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