旧裁判所対新裁判所論争
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「ジョセフ・デシェイ」の記事における「旧裁判所対新裁判所論争」の解説
ケンタッキー州の歴史家トマス・D・クラークは、デシェイが「破産した有権者の群れを救済するために軽率な約束をし、...その約束を実行するしかなくなった」と記している。議会に対するデシェイの最初の演説は、概して司法府、特にアメリカ合衆国最高裁判所に対する批判だった。最高裁は「グリーン対ビドル事件」の判決で、ケンタッキーが州になる以前にケンタッキー地区でバージニア州が認めた土地の権利は、後にケンタッキー州が認めた土地権利と異なる場合に、バージニア州の方が優先すると裁定したばかりだった。デシェイの司法府に対する強硬姿勢に力を得た救済派は、以前に債務者救済法について違憲の判断を下した控訴裁判所判事の排除に取りかかった。反抗的な判事に対して提案された最初の懲罰手段は、年給で25セントまで減給することだったが、このやり方は直ぐに止められた。次ぎに議会は判事達を名指しで排除しようとしたが、この排除を有効にするために必要な両院の3分の2以上を確保していないことに気付いた。 最終的に1824年12月9日、ケンタッキー州上院はケンタッキー州控訴裁判所を創設した法を撤廃し、州内に新しい最終審を設立する手段を通した。この法案は下院に送られ、12月23日まで活発な議論が続いた。深夜まで続いた議論中に、デシェイが議場に現れて、議員達に法案を支持するよう訴え、議論を終わらせるために実際に先決問題を排除させた。これは、ケンタッキー州の歴史家ローウェル・H・ハリソンの言葉を借りれば、「下院規則の目に余る違反」だった。下院は賛成54票、反対43票で法案を通し、デシェイが即座に署名して法制化した。 1825年1月20日、デシェイは新裁判所判事に4人を指名した。州務長官で元アメリカ合衆国上院議員のウィリアム・T・バリーを新裁判所の長官に選んだ。他の3人はレキシントンの弁護士ジェイムズ・ハギン、巡回裁判所判事ジョン・トリンブル(最高裁判事ロバート・トリンブルの兄弟)、ベンジャミン・パットンだった。中傷者が「デシェイの裁判所」と呼んだこの新裁判所判事の中で、歴史家のスティックルズはバリーが「旧裁判所判事と同じくらい法学者として経験、名声、能力を見せる手段を持っていた唯一の者に見える」としていた。旧裁判所事務官アキレス・スニードは新裁判所事務官フランシス・P・ブレアへの裁判記録引き渡しを拒んだので、ブレアは力ずくでスニードの事務所から記録を持ち出した。スニードは協力を拒んだので、法廷侮辱罪として10ポンドを科料された。旧裁判所はフランクフォートの教会で事件の審問を続け、一方新裁判所が公式の裁判所を占有した。どちらも互いを認知せず、どちらも州の最終審である合法性を主張した。州内の弁護士や判事の大半は旧裁判所の支持者であり、彼等の前で実務を続け、その規則を遵守したが、新裁判所を合法のものとして認めることを選ぶ者もいた。 デシェイとその閣僚全体で、1825年の州議会選挙には新裁判所候補のために選挙運動を行ったが、旧裁判所支持派が下院の多数となり、上院では新旧両派支持者が拮抗する結果になった。新しく招集された議会に対するデシェイのメッセージはこのときも銀行と司法への批判のままだったが、裁判所問題に妥協案を求めるよう議会に促すことになった。スティックルズは、たとえ新裁判所党派にとって面目を保つことになったとしても、デシェイが妥協を望む姿勢は誠実だったと記録している。議会が再度新しい判事団の指名を承認することになったとしても、デシェイは平等に両陣営から指名することになると約束していた。これとは別に判事の数を6人にして、両派から3人ずつ指名するという案もあった。ある議員は両裁判所の全判事が辞任し、それと共にデシェイ、副知事のロバート・B・マカフィ、議会の全議員も辞任し、州政府自体を基本的にリセットする案を提案した。この案は下院を通過したが、上院で握りつぶされた。下院は旧裁判所を再度認証する方法を成立させたが、上院では賛否同数となり、上院議長であるマカフィが反対票を投じて決着した。こうした中で1825年11月7日、この論争に関わりがあると言われたビーチャム=シャープの悲劇と呼ばれた事件が起き、1826年にビーチャムが処刑された。 1826年までに州内の経済環境は著しく改善された。その結果、旧裁判所支持派の急速な高まりをみた新裁判所判事のうち2人が辞任した。デシェイは新たに3人の指名を提案したが、その3人とも無視するか拒絶した。最終的に1826年4月にジョン・テレマカス・ジョンソンが指名を受け入れ、1826年の任期では3人の判事だけで新裁判所が運営された。同年8月の選挙で、旧裁判所派が下院で56対44、上院で22対16とどちらも多数派になった。裁判所問題の行き詰まりを打開するために、デシェイは再度議会に妥協案の成立を促した。しかし、両院で旧裁判所派が多数であるので、断固として新裁判所を否定し、旧裁判所を回復し、新裁判所に関する法全てを撤廃する法案を通した。デシェイはこの法案に拒否権を使い、妥協案ではなく露骨に党派に偏った法案を通したことで議員を叱責した。1827年1月1日、議会はデシェイの拒否権を差し戻した。和解の動きの中で上院は新裁判所派であるジョージ・M・ビブに対するデシェイの指名を確認した。これは回復された旧裁判所の判事ジョン・ボイルが1826年11月に連邦裁判所判事の指名を受け入れて辞任してできた空席への指名だった。
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