ナポリ・アドリア政策
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「ハンガリー・アンジュー朝」の記事における「ナポリ・アドリア政策」の解説
「ラヨシュ1世のナポリ遠征」も参照 ラヨシュ1世がバルカン政策と並んで生涯を費やしたのが、ナポリ王位の請求である。ラヨシュ1世がハンガリー王位に就いた翌年の1343年にナポリ王ロベルトが死去した。その孫娘ジョヴァンナ1世はラヨシュ1世の弟アンドラーシュ(エンドレ、アンドレア)を最初の夫として共同統治することになったが、アンドラーシュは王配の地位に留められた上、1345年に暗殺された(ジョヴァンナ1世の関与が疑われた)。 ラヨシュ1世はこれを好機としてナポリ王位を要求して軍を進め、1347年に王都ナポリを占領する。しかし、ローマ教皇クレメンス6世の介入により、請求を捨てざるを得なくなった。後の1382年、ラヨシュ1世は自分の息のかかった同族のドゥラッツォ公カルロにジョヴァンナ1世を暗殺させ、カルロ3世として王位に即けている。 他方、1356年に始まったヴェネツィアとの戦いではダルマチアを奪還したばかりではなく、ラグーザ共和国まで兵を進めている。そして1358年のザーラ条約でアドリア海の覇権を確かなものにした。
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