コロネリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 23:24 UTC 版)
「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の記事における「コロネリア」の解説
セミナラの戦いの時点のスペイン軍は以下のようなものだった。歩兵の主な装備は剣と丸盾だった。投射兵器の主力はクロスボウで、アルケブス(初期の火縄銃)を装備していた兵もいたが、その数は多くなかった。 重装騎兵は主に貴族とその郎党で、全体に占める割合は少なく、他の大半の騎兵は軽装騎兵だった。また、重装騎兵はフランスの騎兵のように密集して戦うことは少なかった。砲兵、工兵は数も多く、質も高かった。この2点ではスペイン軍は他国に優越していた。これらはレコンキスタの一般的な戦闘形態である攻城戦やゲリラ戦には適当な装備だった。しかしながら、イタリアのような平野の多い土地で他国の野戦軍と戦う場合、見劣りがすることは否めなかった。 イタリア戦争で敵となったフランス軍の編成は以下のようなものだった。歩兵の主力は槍兵だった。中でもスイス人傭兵は最精鋭として恐れられていた。スイス槍兵の密集隊形を崩すのは非常に困難であり、しかも彼らは密集隊形のままで突撃することができた。また、スイス槍兵ほどではないが、大半の槍兵の密集隊形は騎兵の突撃を阻止することができた。槍兵を支援するための投射兵はクロスボウを装備しているのが普通で、アルケブスはまだ少なく、ここはスペインと同様だった。 重装騎兵はフランス軍の中核だった。機動力と衝撃力を備えた重装騎兵は、敵の戦列を崩せる唯一の存在だった。ただし、槍兵の密集隊形を正面から崩すことはまず不可能であるため、移動などで敵の隊形が乱れる時を狙って突撃を仕掛けた。軽装騎兵は偵察等に使用され、会戦では予備軍にまわされるのが常だった。フランス軍はイタリア侵攻に多数の砲兵を引き連れており、主な役割は攻城戦における城壁の破壊だった。野戦においては敵の隊形を崩すことを期待されていたが、当時の技術的制約から連射ができず、また移動にも手間がかかるため、十分な力を発揮することはできなかった。 両者を比べた場合、スペイン軍は歩兵、重装騎兵で明らかに劣っていた。歩兵の剣は振り回すための空間が必要であり、前に突き出すだけでよい槍に比べて密集度が低く、また射程も短いために騎兵の突撃に対抗できなかった。重装騎兵は密集しないために敵の隊形を崩せず、数の不足から騎兵戦でも不利だった。 ゴンサロが最初に着手したのは、歩兵の装備を剣から槍に変更することだった。槍兵には密集隊形を組ませ、その周囲と両翼に投射兵を袖のように配置した。次に部隊の柔軟性を高めるため、士官の数を増加させた。それまでたった1人の士官が兵士100人から600人を指揮していたが、ゴンサロは兵士300人につき4人から6人の士官がつくようにさせた。一つの部隊はおよそ1000名前後で構成されたと考えられている。こうした部隊はコロネリア(Coronelía)と呼ばれた。後にコロネリアの兵員は増加され、有名なテルシオ(Tercio)へと変化する。 一方で騎兵に関してはゴンサロはさほど手を加えなかった。その代わりゴンサロは工兵を利用して、騎兵の機動力と突撃力を減殺させる方法を考えた。すなわち塹壕と土塁である。敵の脅威から歩兵や大砲を守るために人工物を作り出すという手法は、古典的な城の概念と同じである。つまり、ゴンサロは攻城戦における防御側の戦術を野戦に持ち込もうとしたのである。ゴンサロはチェリニョーラの戦いでこの概念を実践し、野戦築城の効果を知らしめた。このために彼を塹壕戦の父とする歴史家もいる。
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