キプロス王国の黄金時代
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「リュジニャン家」の記事における「キプロス王国の黄金時代」の解説
詳細は「en:Alexandrian Crusade」を参照 ユーグ4世は29歳で王位についたが、他のこれまでのリュジニャン家の王と異なり、キプロスの統治に専念し、息子ピエールがエルサレムに向けて十字軍を率いてほしいという頼みも拒否した。その代り、ユーグは国内の問題に重点を置き、賞罰にこだわった。ピエールと三男ジャンが無断でヨーロッパを旅した時には、ユーグは息子らを助けた男を拷問した後絞首刑にし、船を送り息子らを見つけさせ牢に入れた。ユーグは芸術、文学および哲学に強い関心を持ち、ラピソスにあった夏の離宮で定期的に哲学論議を主催したり、ジョヴァンニ・ボッカッチョに『異教の神々の系譜』を依頼した。1347年、息子ピエールは剣騎士団を創設し、そのモットーは家訓の「Pour Lealte Maintenir」であった。 1358年、ユーグは退位し、継承者であった孫のユーグの代わりに好戦的な息子ピエールを王位につけた。ピエールは、キプロスは中東の最後のキリスト教国のとりでであり、ムスリムと戦い、小アジアの沿岸部を襲うのが自身の使命と信じていた。コリコスの人びとはムスリムからの防衛を求めていた。ピエールは親類であるロベール・ド・リュジニャンをコリコス攻撃を指揮させるために派遣した。リュジニャン軍は勝利し、ピエールと対立するムスリムの指導者らは共にキプロスでの攻撃を開始した。ムスリムが上陸する前にムスリムの艦隊を壊滅させるために、ピエールはロードス島の聖ヨハネ騎士団、教皇軍および地中海の海賊らと合流した。さらにアンタルヤでの敗北の後、この地の残ったエミールらは貢物をさし出し、ピエールはこれを受け、旗、紋章およびリュジニャン家のその他の目印を贈り、各都市に掲げさせた。ピエールは私的に征服した地を訪れ、それぞれの地で戦利品、贈り物や賛美を受けた。 ピエールはキプロスに戻ったとき、王位を失いかけた。かつて王位継承者であった甥のユーグが自らを王と認めてもらうため教皇ウルバヌス5世を訪れたからであった。ピエールは自ら主張するためアヴィニョンに向かって旅立った。ウルバヌスはピエールの王位を認めたが、ユーグはかなりの補償を毎年受けることとなった。ピエールはまた、十字軍について教皇と話し合い、軍の強化のため他の諸侯を訪問することを決めた。ピエールはドイツ、フランスおよびイングランドを訪れ、そこで名高い「五王の晩餐会(英語版)」が行われた。1363年、ピエールは、ポーランド王カジミェシュ3世主催のクラクフ会議に参加した。他の参加者はカール4世、ハンガリー王ラヨシュ1世、デンマーク王ヴァルデマー4世などであった。話し合われた議題は、ピエールの十字軍、王たちの間の平和条約、およびポーランド王位の継承についてであった。ピエールはトーナメントに勝ち、名声を得た。 ピエールが新たに十字軍を結成し、知名度を上げる一方で、弟ジャン(英語版)はキプロスの副王として統治を行い、多くの困難に直面していた。それは1363年に発生した疫病で、姉エシーヴを含む多くのキプロス人の死者が出た。トルコ人はキプロス人に死者が出ていると聞き、村を襲い略奪を行った。またこの間に、ファマグスタに停泊していたジェノヴァ海軍とキプロス人との間で争いが勃発した。ピエールはその時ジェノヴァに滞在しており、平和交渉を行った。ピエールは主要な諸侯からの支援を得るのに失敗したが、アレクサンドリア十字軍のため出発した。ピエールはアレクサンドリアを破壊したが、カイロへ向かうことを阻止され、スルタンをただ怒らせただけだった。ピエールはベイルート、トリポリに向かい、1368年には十字軍結成のためヨーロッパ諸侯を再びまとめようとした。教皇ウルバヌス5世はその代わりにピエールにエジプトのスルタンと和平を結ばせた。スルタンはピエールの十字軍への報復としてキリスト教国の船を襲わせていたのである。ピエールの統治下での商業の発展により、ファマグスタは当時もっとも裕福な都市の1つに成長した。そして、富裕層が浪費した生活を送ることが出来る場所という名声を得ることとなった。 ピエールはローマに滞在している間に、アルメニア貴族がピエールを王に推戴したいと考えているという知らせを受けた。ピエールが不在の間、王妃が不貞を働いたことが判明したため、ピエールはキプロスに帰り、彼自身の弟らも含め、王妃が好意を示したすべての貴族を処罰した。1369年、ピエールは自身の騎士3人にベッドで殺害された。ピエールは治世の間に、騎士道の鑑として知られており、リュジニャン朝の王の中で最も偉大な王であった。ピエールの跡を12歳の息子ピエール2世が継承した。 ピエールの弟ジャンが12歳のピエール2世の摂政となった。ジャンの摂政就任には多くの反対意見があり、特にピエールの王妃であったエレオノーラが反対し、王の暗殺の黒幕がジャンではないかと疑っていた。エレオノーラは復讐を誓い、ピエール1世暗殺の犯人を処罰するため、ヨーロッパに軍の支援を求めた。ジェノヴァがこれに同意し、1373年にキプロスに侵攻、この地域で最も重要な港であったファマグスタを占領した。ピエール2世はキプロス防衛のため小アジアの都市から軍を呼び戻し、敗北を喫した。ピエール2世はジェノヴァとの条約に調印したが、その条件の1つは叔父ジャック(ピエール1世の末弟)をキプロスから追放することであった。これにより戦争は終結したが、ジャックはロードス島でジェノヴァ軍に捕まり、ジェノヴァで捕虜として拘束された。この戦争の後、エレオノーラはジャンが先王を殺害したと信じ続け、最終的にジャンを殺害した。ピエール2世はエジプトのスルタンとの間の平和条約に調印し、1382年にニコシアで死去した。 キプロス議会はジャック1世を新しいキプロス王とすることを決定した。しかし不幸なことに、ジャックはいまだジェノヴァに捕われたままであった。捕虜となっていた間に、ジャックはエルヴィーズ・フォン・ブラウンシュヴァイク・グルーベンハーゲンと結婚し、12人の子女をもうけた。ジェノヴァにキプロスにおける特権をさらに認めた後に、ジャックは解放された。ジャックが不在の間、キプロスは12人の貴族からなる評議会により統治されていたが、ペロットおよびヴィルモンド・ド・モントリヴ(Perotte and Vilmonde de Montolivve)の兄弟をはじめとする一部の貴族らはジャックの帰還に反対した。モントリヴ兄弟は自身らが王位につく意図があったためである。1385年、ジャックは帰還し、ニコシアで王位についた。1388年、ジャックはエルサレム王位にもつき、1393年には従兄弟アルメニア王レヴォン6世の死をうけてアルメニア王位も継承した。ジャックは1398年に死去し、息子ジャニュが王位を継承した。
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