ルイ・ド・サヴォワ (ジュネーヴ伯)とは? わかりやすく解説

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ルイ・ド・サヴォワ (ジュネーヴ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/09 03:20 UTC 版)

ルイ・ド・サヴォワ
Louis de Savoie
キプロス王
在位 1459年 - 1464年
別号 ジュネーヴ伯
出生 1436年6月5日
ジュネーヴ
死去 1482年8月
トノン=レ=バンリパイユ城フランス語版
配偶者 キプロス女王シャルロット
子女 ユーグイタリア語版
王家 サヴォワ家
父親 サヴォイア公ルドヴィーコ
母親 アンヌ・ド・リュジニャン
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ルイ・ド・サヴォワLouis de Savoie, 1436年6月5日 - 1482年8月)は、仏伊国境の諸侯サヴォイア家の公子。ジュネーヴ伯。キプロス女王シャルロットとの結婚により、その共同統治者としてキプロス王(在位:1459年 - 1464年)の称号を得た。イタリア語名はルドヴィーコ・ディ・サヴォイアLudovico di Savoia)。

生涯

サヴォイア公ルドヴィーコとその妻でキプロス王ジャニュの娘であるアンヌ・ド・リュジニャンの間の次男として生まれた。公爵家の家督は兄アメデーオ9世が継ぐと決まっており、分封領としてジュネーヴ伯爵領を授けられた。1447年12月14日スターリング城においてスコットランドジェームズ1世の娘アナベラと結婚したが、やがて別居、1458年婚姻を解消した[1]

翌1459年10月4日、母方の従妹にあたるキプロス女王シャルロットと結婚し、その共治王となる。同時に、名目上のエルサレム王キリキア・アルメニア王の称号も帯びた。しかし夫妻の王位はシャルロットの庶出の兄で、マムルーク朝スルタンと結んだニコシア大司教ジャック・ド・リュジニャンの挑戦を受け、1464年に王位を追われてローマに逃れた。

ルイとシャルロットの間には1464年6月にユーグイタリア語版という名の王子が生まれたが、誕生後1か月以内に死去している。ルイは1482年、トノン=レ=バン郊外のリパイユ城フランス語版で没した。

引用




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