ルイ・ド・クルヴァン (ユミエール公)とは? わかりやすく解説

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ルイ・ド・クルヴァン (ユミエール公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 16:21 UTC 版)

ユミエール公ルイ・ド・クルヴァン

ユミエール公ルイ・ド・クルヴァン(Louis de Crevant, duc de Humières, 1628年 - 1694年8月30日)は、ブルボン朝フランスの軍人。

三十年戦争に従軍して1650年に陸軍少将となり、1653年から1659年までテュレンヌに従いスペイン領ネーデルラントスペインと戦った(フランス・スペイン戦争)。1667年ネーデルラント継承戦争トゥルネードゥエーリールを落とし、翌1668年陸軍元帥に昇進、ブルボネーコンピエーニュ及びリールの総督にも任命された。1653年に結婚したナンセ伯爵夫人ルイーズ・アントワネットを通してルーヴォワ侯と良好な関係を築いたことも出世に繋がった。

1672年からのオランダ侵略戦争にも従軍、1677年サントメール包囲中に救援に駆けつけたオランダ総督ウィレム3世を迎え撃ち、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世リュクサンブール公と共に補佐してカッセルの戦いで勝利を挙げた。1683年にルイ14世が東部国境地域の併合を行うとネーデルラントへ向かいコルトレイクアウデナールデを占領している。

1688年大同盟戦争が勃発するとネーデルラントへ送られたが、1689年オランダの将軍ヴァルデック侯とイングランドの将軍マールバラ伯(後のマールバラ公ジョン・チャーチル)にワルクールの戦いで敗北、リュクサンブール公に交代させられた。以後もリュクサンブールの下でネーデルラントを転戦、1692年の第一次ナミュール包囲戦に加わっている。1694年、ヴェルサイユで66歳で亡くなった。

参考文献




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