カッセルの戦い (1677年)とは? わかりやすく解説

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カッセルの戦い (1677年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 09:53 UTC 版)

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カッセルの戦い
戦争仏蘭戦争
年月日1677年4月11日
場所フランドル地方・カッセル
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
ネーデルラント連邦共和国 フランス王国
指導者・指揮官
ウィレム3世 オルレアン公フィリップ1世
ユミエール公ルイ・ド・クルヴァン
リュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー
戦力
32,000人 34,000人
損害
死者・負傷者8,000人
捕虜3,000人
死者・負傷者4,000人

カッセルの戦い: Slag bij Kassel, : Bataille de la Peene)は、仏蘭戦争における戦闘の一つで、1677年4月11日フランドル地方(現在のフランスノール県)の都市カッセルでオランダ軍とフランス軍が衝突した。

スペイン領ネーデルラントのフランス軍はスヘルデ川流域の制圧を狙い沿岸のヴァランシエンヌカンブレーサントメール包囲へ向かった。3月にヴァランシエンヌは陥落、残る2箇所を包囲中にオランダ総督ウィレム3世がサントメール救援に向かい、オルレアン公フィリップ1世とユミエール公ルイ・ド・クルヴァン、リュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーが3万2000の兵で迎え撃った。

4月11日にカッセルで両軍は交戦、オランダ軍右翼はフランス軍左翼のリュクサンブールを撃退したが、右翼のユミエール率いる歩兵で左翼を崩され敗走、放棄された物資の略奪で崩壊は免れたが、オランダ軍は負傷者8000人、捕虜4000人にも及ぶ敗北に終わった。一方のフランス軍も4000人の大損害を受けた。戦後間もなくサントメール・カンブレーはフランス軍に落とされスヘルデ川上流はフランス軍が占拠した。

参考文献




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