ブザンソン包囲戦とは? わかりやすく解説

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ブザンソン包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 09:59 UTC 版)

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ブザンソン包囲戦

ブザンソン包囲戦における ルイ14世、アダム・フランス・ファン・デル・メーレン作、1674年。
戦争仏蘭戦争
年月日1674年4月19日 - 5月22日
場所ブルゴーニュ伯領英語版(スペイン領)ブザンソン
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス王国 ネーデルラント連邦共和国
スペイン王国
指導者・指揮官
ルイ14世
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン
戦力
70,000

ブザンソン包囲戦(ブザンソンほういせん、英語: Siege of Besançon)は仏蘭戦争中の1674年4月19日から5月22日にかけて行われた、フランス王国によるブザンソンの包囲。

背景

1672年に開戦した仏蘭戦争はその2年目まで主にネーデルラント連邦共和国を戦場としたが、1673年に反フランス同盟が結成され、さらにイングランド王国が1674年2月にフランス支持を撤回すると[1]、フランス軍は撤退を余儀なくされた。1674年春、フランス王ルイ14世は軍勢7万を率いてフランシュ=コンテに侵攻した。ルーヴォワ侯爵サラン=レ=バン英語版ドルを落としてからブザンソンを攻撃しようとしたが、ヴォーバンはブザンソンを先に落とすべきだと進言、結局ヴォーバンの意見が採用された[2]

包囲

4月26日にブザンソンに到着すると、ヴォーバンは大砲36門をブザンソンの西にあり、城塞を眺望できるショーダンヌ英語版山に設置しようとした。大砲は夜中、ラバと兵士によって山上に運ばれ[3]、それ以降ブザンソンは絶え間なくフランス軍の砲撃に晒された。ブザンソンの町は5月15日に、城塞は22日に降伏した。

止血帯の使用

ブザンソン包囲戦の最中、フランス軍の軍医エティエンヌ・J・モレル(Etienne J. Morel)が負傷による出血を止めるために止血帯を使い、止血帯がはじめて使われる例となった[4]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Collectif. Sous la direction de Jacques Garnier. Dictionnaire Perrin des guerres et des batailles de l'histoire de France, Paris, Perrin, 2004, 906 p. (ISBN 2262008299), pp. 144-145.
  2. ^ Bernard Pujo, Vauban, Paris, Albin Michel, 1991, 374 p. ( ISBN 222605250X), p. 74.
  3. ^ Bernard Pujo, Vauban, Paris, Albin Michel, 1991, 374 p. ( ISBN 222605250X), p. 75.
  4. ^ A History of Prosthetics and Amputation Surgery”. Prosthetics.org.uk. 2017年10月7日閲覧。

外部リンク

座標: 北緯47度14分35秒 東経6度01分19秒 / 北緯47.2431度 東経6.0219度 / 47.2431; 6.0219




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