コッハースベルクの戦いとは? わかりやすく解説

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コッハースベルクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/15 15:36 UTC 版)

コッハースベルクの戦い

戦闘の場所
戦争仏蘭戦争
年月日1677年10月7日
場所シュトラースブルク司教領英語版、コッハースベルク[1]
結果:フランスの限定的な勝利
交戦勢力
フランス王国 神聖ローマ帝国
指導者・指揮官
フランソワ・ド・クレキ ロレーヌ公シャルル5世
損害
死傷者と捕虜700-800

コッハースベルクの戦い(コッハースベルクのたたかい、ドイツ語: Gefecht bei Kokersberg)は仏蘭戦争中の1677年10月7日フランソワ・ド・クレキ率いるフランス軍とロレーヌ公シャルル5世率いる神聖ローマ帝国軍の間で戦われた戦闘。

背景

シャルル5世は軍を率いてアルザスに侵入、フィリップスブルク要塞ドイツ語版を脅かした。クレキ元帥は軍を率いてシャルル5世を追ったが、率先して攻撃を仕掛けることはしなかった。

経過

クレキはコッハースベルクの高地で有利な陣地を敷くことができたが、アラン伯爵(Haran)率いるロレーヌ騎兵が夜に紛れて攻撃を仕掛けることは防げなかった。しかし、クレキは戦闘をしないよう厳命されていた。

攻撃を受けたフランス軍右翼の指揮官クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールは自軍を守るために派遣隊を送るだけに留まった。派遣隊は近衛兵2個大隊の支援もありロレーヌ騎兵12個大隊を撃退することができた[2]

この戦闘は限定的な騎兵戦だけだったが、フランス軍は軍旗を数本奪うことに成功、アラン伯爵など士官数人を捕虜にすることもできた。

その後

クレキが危険を冒さないよう厳命されたこともあり、彼は翌日に撤退した。そのため、この限定的な勝利を拡大することができず、シャルル5世は勝利を宣言した。

脚注

  1. ^ ヴィンツェナイム=コシェルスベルグ英語版ドッセナイム=コシェルスベルグ英語版のどちらかは不明。
  2. ^ Chauviré, Frédéric (2009年). “La Maison du Roi sous Louis XIV, une troupe d’élite. Étude tactique”. 2010年8月16日閲覧。

参考文献

  • Yves Joseph La Motte, Antoine Augustin Bruzen de La Martinière: Histoire de la Vie et du règne de Louis XIV, 1742, p. 108.
  • J. C. L. Simonde de Sismondi: Histoire des Français, tome 17, 1842, p. 403.
  • Mémoires de la société des Antiquaires de Picardie, volume 2, p. 231, 1839.



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