電池説への指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:18 UTC 版)
電池である可能性を最初に指摘したケーニヒは壷を紀元前250年頃のパルティア朝時代に作られたものと主張したが、ケーニヒの本職は画家であって、考古学者ではない。壷の様式はサーサーン朝様式で、同様の構造の壷がチグリス川河畔のセレウキアや、パルティア時代からも首府であったクテシフォンなどサーサーン朝時代の遺跡から多数発見されている。実際の製造時期は紀元後3世紀から7世紀にあたり、考古学的に壷が明らかにサーサーン朝の様式にもかかわらず、ケーニヒはパルティア時代のものだと誤って主張していることになる。 セレウキアを発掘したリロイ・ウォーターマン、クテシフォン遺跡を発掘したエルンスト・クネルは、同様の壷を発見していて、中にパピルスの繊維を確認している。また、壷が建物の基礎部分から発見されていることから、実際は宗教的な祈祷文を入れて埋める壷であり、金属棒は巻物の芯棒、周りの金属は金属製の保護容器である可能性が高い。 電池によく似た構造になったのは巻物に使われたパピルスが腐敗して無くなり、鉄製の芯棒が残ったためでたまたま電池に似た構造になっただけである、としている。
※この「電池説への指摘」の解説は、「バグダッド電池」の解説の一部です。
「電池説への指摘」を含む「バグダッド電池」の記事については、「バグダッド電池」の概要を参照ください。
- 電池説への指摘のページへのリンク