国内事情と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 11:57 UTC 版)
「ホーエンシュタウフェン朝」の記事における「国内事情と政治」の解説
ホーエンシュタウフェン朝は6代109年の王朝であった。これは、歴代の王朝(リウドルフィング朝、ザーリアー朝、ズップリンブルク朝、ホーエンシュタウフェン朝)の中では最も長い。歴代皇帝には有能な人物が多かったが、イタリア政策を重視し、教皇と対立することが多かったため(教皇派と皇帝派の対立)、ホーエンシュタウフェン朝の基盤は脆弱であった。 フリードリヒ1世やフリードリヒ2世は国内安定化のため、常にドイツ諸侯に特権を大幅授与している。フリードリヒ1世は国王直属の官僚(ミニステリアーレ)を登用することで諸侯の力を抑えようとも図ったが、今度は逆に彼らを統御することができず、近代化においてドイツがイギリス・フランスに大きく遅れを成す一因となった。 ハインリヒ6世はイタリア政策に成功を収めたが、若すぎる死が王朝衰退と混乱を招くこととなった。 フリードリヒ2世の場合は、イタリア政策を重視するあまり本国から離れすぎたため、帝国の基盤が固まらなかった。しかしフリードリヒ2世は優秀で、エルサレムの無血奪還を果たし、エルサレム王としても即位している(ただし、このときの即位に対してはイスラム教徒(ムスリム)との交渉による産物として当時としては評価が低く、王位戴冠式には1人の騎士団長しか出席しなかったという寂しいものであった)。また、シチリア王国にローマ法に基づく国家法典を制定し、ナポリ大学を建設するなど、シチリア・南イタリアの発展に尽力した。 しかし、フリードリヒ2世がドイツの政治を顧みなかったため、いよいよ帝国の分裂・領邦化が進み、彼の時代のドイツ騎士団の東方進出により、プロイセン形成の基礎が作られたのである。 なお、フリードリヒ2世建造の統治のシンボルとも言われる豪壮なカステル・デル・モンテ(南イタリアのアプリアに現存)は、シュタウフェン家の城として最も有名なものであり、フランクフルトの東40㎞に位置するゲルンハウゼンの城は、シュタウフェン家がドイツに建造した最も素晴らしい王宮と呼ばれている。
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