軍事都市エルヴァンゲンの歴史
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「エルヴァンゲン (ヤクスト)」の記事における「軍事都市エルヴァンゲンの歴史」の解説
エルヴァンゲンで最初の兵士は、早くも980年にエルヴァンゲン修道院の記録文書に記述されている。イタリアでの反乱に対するオットー2世の戦いにエルヴァンゲン修道院は40人の装甲騎兵を提供した。1455年には対トルコ戦に30人を送っている。ヴュルテンベルク伯ウルリヒ(ドイツ語版、英語版)は1460年のプファルツおよびバイエルン征伐に市兵を要求している。同じ年の10月に改めて今度は騎兵 30、歩兵 200の兵力を要求している。その後エルヴァンゲンには長らく兵舎がなかった。1705年から1707年までシュヴァーベン軍の騎兵隊はシュロス・オプ・エルヴァンゲンに宿営した。1792年から1815年の対仏大同盟戦争ではこの街に割り当てられた兵士も戦闘に参加した。世俗化され、ヴュルテンベルクの統治が始まると、1802年にオーベルニツ大隊 624人、砲撃手 13人、カノン砲 2門、軽騎兵 78騎からなるヴュルテンベルク軍がエルヴァンゲンに配備され、街に軍備がなされた。エルヴァンゲンはヴュルテンベルクのフリーデンス兵舎があり、新たに編制されたエルププリンツ歩兵大隊を擁していた。兵舎には市の中心部にある旧イエズス会修道院が使われた。その後兵舎は継続的に強化されていった。兵士の数も増加し、1812年には1550人に達した。このため、1812年のナポレオンによるロシア遠征ではヴュルテンベルク軍は最も甚大な損失を被り、1820年にエルヴァンゲン兵舎は廃止された。管区司令官だけは1909年までエルヴァンゲン城に残った。1909年ベルク通りに新しい建物(ベルク兵舎)が建設された。 1914年ヴュルテンベルク軍は、エルヴァンゲン駐屯地に下士官予備学校を設けることを決定した。第一次世界大戦中であるにもかかわらず、大規模な新設工事とミュールベルク兵舎(1968年からはラインハルト兵舎)の定礎がなされた。エルヴァンゲンはヴュルテンベルクで最も重要な軍事都市の一つとなった。しかし、ヴェルサイユ条約での取り決めに従って、エルヴァンゲン駐屯地は1921年に廃止された。建物は、初めは機動警察署として利用され、後には福音主義教会の孤児院に転用された。1933年からは親衛隊の兵舎として使用された。1933年8月に初めは「ヴュルテンベルク警察機動隊」が、1934年に組織改革がなされ、親衛隊特務部隊第1連隊「ドイチュラント」の「III. Sturmbann」が、1939年の開戦後は武装親衛隊およびドイツ国防軍の教育部隊および予備兵部隊が駐屯した。その結果、大規模な拡張工事がなされた。戦争中には兵舎の敷地ではスペースが不足したため、エルヴァンゲン市内の建物、たとえばかつてのベルク兵舎やヨーゼフィヌムが接収された。1945年4月、エルヴァンゲンの兵舎にいた36人の兵士がリパッハの虐殺の犠牲となった。 戦後は、1956年にすべての兵舎がドイツ連邦軍に引き渡されるまで、アメリカ軍部隊が一時的にミュールベルク兵舎に駐留した。兵舎の敷地は大幅に拡張された。ダルキンゲンとシェーネンベルクに、演習地が設けられた。1958年から2008年までエルヴァンゲンには第30装甲擲弾兵旅団の司令部が駐屯した。2014年1月末に、最後まで残っていた軍の部隊、第465輸送大隊が廃止された。エルヴァンゲンには連邦言語庁の南部言語センターだけが残っている。
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