関東衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)
残された滝川方の諸将のうち由良国繁と長尾顕長は、北条高広と同様に滝川一益と早々に手切れをして北条氏についている。その他の諸将も全て北条氏に降った。 富岡秀高は神流川の戦いにはどちらにも参陣しなかった為、北条氏直より不信を買っている。 内藤昌月は北条家に降り、箕輪城には北条氏邦が入ったが、内藤家に身を寄せていた保科正俊・正直親子は北条勢に同行して信濃に入り、高遠城を奪還している。その後、保科正直は徳川方に転じ真田昌幸の上田城攻めに参加し、内藤昌月は北条方に留まり真田昌幸の沼田城攻めに参加している。 天正10年(1582年)北条高広、真田昌幸は上杉景勝と結び、天正12年(1584年)由良国繁、長尾顕長は佐竹義重・宇都宮国綱・佐野宗綱と結び(沼尻の合戦)、それぞれ北条氏から離反するが真田昌幸を除いて皆敗れ、北条氏に再度降った。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐において、真田氏以外の諸将は北条傘下であった為、真田昌幸、佐野房綱(天徳寺宝衍)、由良国繁を除く諸氏(倉賀野氏、安中氏、内藤氏、和田氏、高山氏、深谷氏、上田氏、富岡氏、成田氏等)は皆没落した。なお真田昌幸の娘・於菊は宇多頼次に嫁いだが、関ヶ原の戦いにより宇多氏が没落し、一益の孫・滝川一積と再婚している。
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