長島一向一揆と石山合戦とは? わかりやすく解説

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長島一向一揆と石山合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)

滝川一益」の記事における「長島一向一揆と石山合戦」の解説

元亀元年1570年9月石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦開始長島一向一揆一斉に蜂起し11月には信長の弟・織田信興小木江城討ちとられ、一益も桑名城篭っている。その後北伊勢長島一向一揆対峙しつつ、尾張守備、さらに遊軍として各地転戦することとなる。 天正元年1573年)の一乗谷城の戦い参戦天正2年1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際して九鬼嘉隆と共に水軍率い海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。 天正3年1575年)、長篠の戦いに参陣し鉄砲隊総指揮執る。また同年には越前一向一揆攻略天正4年1576年)の天王寺合戦、同5年1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率い黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。天正7年1579年11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城守備崩壊させた。この2つ敗戦により、石山本願寺への兵糧武器搬入滞るようになり、翌年4月本願寺法主顕如信長降伏することとなる。 天正8年1580年)、小田原城主・北条氏政信長使者送った際には武井夕庵佐久間信盛並んで関東衆申次を命ぜられる。この年佐久間信盛追放されたことから、関東衆、特に後北条氏申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長献上した際にも申次務めている。天正9年1581年)には伊賀攻めに参陣し甲賀口より攻め込んでいる。また、同年京都妙心寺内に自らの子九天宗瑞を開祖として暘谷庵を起こした暘谷庵は津田秀政死後に、長興院改名された)。

※この「長島一向一揆と石山合戦」の解説は、「滝川一益」の解説の一部です。
「長島一向一揆と石山合戦」を含む「滝川一益」の記事については、「滝川一益」の概要を参照ください。

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