軍人から外交官へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:51 UTC 版)
「チャートチャーイ・チュンハワン」の記事における「軍人から外交官へ」の解説
父は1947年のタイ・クーデター(英語版)で中心的役割を果たした陸軍元帥ピン・チュンハワン。父の家系は華僑系で、1988年末に訪中した際、「自分は華僑三世で姓は林。祖父母の墓は上海郊外にあり」と語っている。 バンコクにある名門男子校テープシリン学校(英語版)と王立陸軍士官学校で学び、1940年に少尉任官、近衛第1騎兵大隊小隊長として軍役に就く。第二次世界大戦中、第1騎兵大隊は父親のピンも副司令官を務めたパヤップ軍(英語版)(「外征軍」)の独立第12騎兵連隊隷下となり、イギリス領ビルマのシャン州の侵攻に参加、1943年、大隊はバンコクに戻り陸軍参謀本部警備、同中隊長。戦後、タイ陸軍騎兵学校とケンタッキー州フォートノックス(英語版)の米国陸軍機甲学校で訓練を受ける。1949年、ワシントンD.C.駐在武官。 その間、父親ピンは1947年にタイ・クーデター(英語版)でピプーンを復権させ、また1951年には義兄弟である警察長官パオ・シーヤーノン(英語版)とともに「静かなるクーデター(英語版)」を起こし、事実上権力を掌握した。彼らは 「ソーイ ・ラーチャクルー」(ピン・パオ派) と呼ばれ、麻薬取締を建前に大がかりなアヘン・麻薬取引を行って資金源とするとともに、政治的影響力を利用して、バンコク銀行を手中に収めるなど活動を経済圏にまで広げた。 朝鮮戦争が勃発すると、チャートチャーイは第1騎兵大隊の指揮官を務める。帰国後、タイ陸軍装甲学校の所長兼指揮官になる。中佐であった1953年、中華民国陸軍ビルマ残留部隊(中国語版)の台湾送還に関わる。のち、30代にして少将となった。1957年9月18日、同じくピンの義兄弟でありライバルであるサリット・タナラット元帥が、プレーク・ピブーンソンクラーム政権に対してクーデターを実行した。彼は、シーヤーノンを追い出し、政治的・軍事的主要ポストを自分の側近で固めた。加えて、新政権はピン・パオ派一族が数百万ドルの公的資金を横領し、スイスの銀行口座にそれらを隠ぺいしていたと告発した。これにより、父も失脚し、チャートチャーイは軍を追われるのみならず、以後大使として「準国外追放処分」を受ける。 チャートチャーイは外交局に異動し、比較的重要でないアルゼンチン大使に任命された。翌年以降、オーストリア、スイス、トルコ、ユーゴスラビア、バチカン および国連のタイ大使を連続して務めた。この間に中国、中近東とのパイプが形成されたとみられ、のちの首相就任後に役立つこととなる。1972年、バンコクに戻り、外務省の政治部長になった。
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