軍人としての出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:17 UTC 版)
東征において卓越した指揮振りを発揮した陳誠は、1926年5月以降教職や参謀職として前線を離れる。しかし7月には粤軍に来た当初の上官だった予備第1師師長・厳立三の推薦で現場に戻り、同隷下第3補充団団長となる。12月の北伐開始を控え、予備第1師は第21師に改編、12月には華中の戦線に投入された。討賊聯軍(直隷派・呉佩孚軍閥)との戦闘で引き続き厳立三の配下として昇進を重ね、翌年4月に第21師長となる。国民革命軍では異例の大隊長から師長(師団長)にわずか1年半で昇進した。しかし、5月下旬に病で倒れ、上海宝隆医院で療養を強いられる。直魯連軍(孫伝芳・張宗昌連合軍)が徐州に迫っていると聞くや病を押して指揮に向かうが、3か月の攻防の末敗退。勢いを増した直魯連軍は87万の軍勢を引き連れ、8月中旬には南京に迫りつつあった。陳誠はなおも病に苦しむ中再び指揮を執り、26日、棲霞山にて敵の包囲網を突破。30日払暁、第21師は黄龍山奪還を開始し、数時間後には859高地および854高地を掌握、午後3時までに黄龍山全域を制圧した。31日、直魯連軍は秦淮河に追いやられ、多数の溺死者を出して敗退した。その後、蘇州にて部隊の立て直しに取り組む。厳立三が軍政庁庁長となったことを機に現場を離れ、軍政庁での仕事に就く。北伐完了後、第17軍から縮小再編された第11師の副師長を経て師長。のち18軍軍長(中国語版)に昇進。土木系の「土木」とはこの「十一」と「十八」を組み合わせたものである。
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