マムルーク朝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:05 UTC 版)
詳細は「マムルーク朝」を参照 12世紀後半にエジプトを支配するファーティマ朝を乗っ取ってアイユーブ朝を立てたクルド人の軍人サラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の兵士に代わって自身の子飼いの兵士からなる信頼できる軍隊を編成するために、クルド人やマムルークを集めて大規模な騎兵軍団を編成した。サラーフッディーンのマムルークが十字軍との戦いで果たした役割は大きい。 サラーフッディーンの死後、アイユーブ朝は彼の諸子・諸弟の支配する多くの政権に分かれることとなるが、その中で主導的な役割を果たしたのは、常に経済的に豊かなエジプトを支配し、その財力によって強力なマムルーク軍団を編成していたカイロの支配者であった。13世紀半ばにエジプトのスルターンであったサーリフは、自身の購入したテュルク系のマムルークをカイロ郊外のナイル川の中洲に造った兵営に集めて精強なマムルーク軍団を養成し、エジプトからシリアまで広く支配することに成功する。バフリーヤと呼ばれたこの軍団は1250年のマンスーラの戦いでエジプトに攻め込んだフランス王ルイ9世の率いる十字軍を破るのに大いに活躍し、同年に父のマムルークをないがしろにしたサーリフの遺児トゥーラーン・シャーをクーデターにより殺害、アイユーブ朝のアイユーブ家に代わるマムルークたちの政権としてマムルーク朝を樹立する。マムルーク朝は1260年にアイン・ジャールートの戦いでアッバース朝を滅ぼしたモンゴル帝国の軍隊を破ってモンゴルの西進をシリアで食い止め、イスラム世界の守護者としての地位を確立、エジプトにマムルーク軍人による支配体制を構築する。マムルーク朝のもとでは、マムルークは外来の奴隷出身の支配者階級であった。 14世紀に入ると、中央アジアでのモンゴル帝国支配の安定と、モンゴルのイスラム化にともなって、イスラム世界に組み込まれたモンゴル帝国の継承政権(ジョチ・ウルスやティムール朝)からのテュルク系マムルークの購入が難しくなった。かわって、マムルークの購入先としていまだキリスト教徒や多神教徒が数多くいたカフカスがマムルークの供給源として重要となり、北西カフカスのチェルケス人からマムルークとなる者が増えた。マムルーク朝の後半期であるブルジー・マムルーク朝は、別名をチェルケス・マムルーク朝というほどである。 マムルーク朝ではマムルークは支配体制の根幹であったので、組織的な育成が行われた。マムルークたちは幼少のうちに親元を離れて奴隷商人の手を経て西アジアにやってきて、自身もマムルーク出身であるスルターンやアミールに購入された。もともと生産力に乏しく十分に人口を支えることのできない遊牧民やカフカス山岳民の間では、マムルークとなればかえって異郷で栄達する可能性もあったことから、進んで子供を奴隷商人の手に預けたのだといわれる。マムルークたち自身も、自分を西アジアにつれてきた奴隷商人に対して栄達後も恩人として敬意を払うことは珍しくなかった。奴隷として購入された若いマムルークは、まずスルターンやアミールの設立したマムルークの教育施設に入れられ、イスラム教に改宗するとともに、アラビア語、クルアーン、イスラム法、礼拝の作法、乗馬、弓射などの文武の学問を身に付けさせられた後、一人前のマムルークとして認められると法的に奴隷身分から解放され[要出典]、収入源としてイクターを授与されてスルターンやアミールの子飼いのマムルーク軍団に編入された。マムルークは購入者である主人に対して絶対の忠誠を誓うことが期待された。また、主人との縦の関係のほかに、同じ主人の同じ教育施設で育った同期の者たちの間には同窓の仲間として強い紐帯が結ばれた。このような支配階級であるマムルーク相互の強い人的関係は、マムルーク朝の支配体制の根幹となった。 スルターンのマムルーク軍団に編入されたマムルークは、容姿振る舞いが美しく有能なものから衣装係、杯持ちなど主君の身辺に仕える近習の役職を経てアミールに抜擢された。マムルーク朝のアミールは十人長、四十人長、百人長の3位階があり、それぞれ10人、40人、100人のマムルーク騎士を自身のイクター収入によって養う義務を負った。有力なアミールは地方の県知事から副スルターン、総司令官、スルターンの侍従長、家令などの王朝の要職に任命され、国家の支配層に列した。主人であるスルターンが死去すれば、前スルターン子飼いのアミールの有力者の間から新スルターンが立った。 アミールを主人とするマムルークたちは、いわば陪臣としてそれほど出世の機会は望めないが、ひとたび主君がスルターンに即位すれば、スルターン子飼いのマムルークとして政権の中枢に列することができた。しかし、アミールがスルターンになることなく引退したり失脚したり死亡したりした場合には、スルターンや他のアミールに転仕するしかなく、新しい主人のもとでは外様のマムルークとして冷遇を余儀なくされた。スルターンの代替わりでも同様で、前スルターンのマムルークは新スルターンに転仕することになったが、新スルターンの子飼いのマムルークたちにかわって冷遇された。 マムルークの息子たちは父と違って生まれながらのムスリム自由人であるのでマムルーク軍団に編入されることはなく、自由人からなるハルカ騎士団に編入された。ハルカ騎士団はアイユーブ朝におけるクルド人自由人からなるエリート軍団に由来するが、奴隷出身のマムルークが政権の中枢に移ったマムルーク朝では次第に冷遇され、授与されるイクターもマムルークに比べて少ないものであった。このため、マムルークの子孫は軍人としての出世を諦めてウラマーになるなどし、次第にエジプトのアラブ社会に同化してゆく運命であった。逆にいえば、マムルーク体制は絶えず新しいマムルークを迎え入れる必要があったのである。
※この「マムルーク朝の時代」の解説は、「マムルーク」の解説の一部です。
「マムルーク朝の時代」を含む「マムルーク」の記事については、「マムルーク」の概要を参照ください。
- マムルーク朝の時代のページへのリンク