軍人から政治家へ
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「ラムシュ・ハラディナイ」の記事における「軍人から政治家へ」の解説
1999年の北大西洋条約機構(NATO)によるコソボ占領とコソボ解放軍の解体の後、コソボ解放軍はコソボ防護隊へと改組された。このあたらしい組織で、司令官アギム・チェク(Agim Çeku)の下、ハラディナイは副司令官となった。コソボ解放軍は非軍事組織のコソボ防衛隊へと改組された。ハラディナイは2000年4月11日にコソボ防護隊を退役し、政治への参加を表明した。ハラディナイは、かつてのコソボの共産主義の指導者マフムト・バカリ(Mahmut Bakalli)の支持を受けて、2000年4月29日にコソボ未来連合を設立し、その党首に選ばれた。この決定は、かつてコソボ解放軍に属していた中でもより好戦的な人々の失望を受けた。彼らは、ハラディナイがハシム・サチの率いるコソボ民主党に加わることを期待していた。ハシム・サチはコソボ解放軍の政治的指導者であり、2000年からはコソボ民主党の党首となっていた。コソボ民主党は、コソボ解放軍に反対したイブラヒム・ルゴヴァ率いるコソボ民主連盟の最大のライバルである。 ハラディナイはコソボのアルバニア人たちの多くから英雄視されている。しかしながら、それでも2004年の選挙を含む各選挙において、ハラディナイの党は大きな成功を収めることができなかった。2004年10月の選挙以降、ハラディナイの党は、当時のコソボ大統領であったイブラヒム・ルゴヴァ率いるコソボ民主連盟の政党連合に加わることになった。それによってハラディナイは、コソボの首相に選ばれた。コソボ議会において、ハラディナイは新しい首相候補となり、120議席中72議席の賛成により首相に選出された。 ハラディナイのルゴヴァとの同盟関係は、戦争中および終戦直後の激しい対立を癒すものと見られた。一方、コソボ民主党からは激しい敵意を向けられることになった。ハラディナイはイブラヒム・ルゴヴァやその他のコソボ民主連盟の人物らとの協力関係を進めた。
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軍人から政治家へ
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明治19年3月から20年(1887年)6月まで1年3ヶ月かけて欧州旅行に出かけ、様々なことを学んだ。エジプトでアフマド・オラービーと出会い、外債をきっかけに列強に侵略された惨状を日本の将来に重ね不安を覚え、スイス・ギリシャは国民政治が行き届き、自治が確立され列強の侵略を許さない姿勢に理想を見出した。外遊中は諸国の実情を見て西洋文明の過剰導入による借金で国が疲弊、それを列強に付け入れられることを危惧し、日本の欧化主義に否定的になり国粋主義者に変貌、閣僚にも拘らず政府批判を考え始めた。オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けたことで自作農保護の農本思想を採り入れ、帰国後は議会を通じて国民の自治を重視する政治家に変わっていった。 帰国後は閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、明治20年7月3日に『(条約改正に関する)意見書』を内閣へ提出した。内容は条約改正問題を取り上げ、改正案に外国人裁判官任用が記されていることに反対、議会開設にも触れ言論の自由を主張した。谷のこの行為は政府内で大問題となり、非難された井上は谷と口論になり、伊藤も閣僚でありながら内閣を非難した谷に反論した。谷も佐々木・元田ら同志と結託し改正反対運動を展開したが、意見が内閣に受け入れられないと見るや26日に辞任した。井上も反対運動の拡大と条約改正失敗により9月17日に辞任、改正は阻止された。 一連の騒動で民権派による大同団結運動が盛り上がり、下野した谷は民衆から英雄に祭り上げられた。これは彼の本意ではなく、9月に高知へ帰郷すると政界復帰を拒み、明治21年(1888年)に陸羯南が主宰する新聞『東京電報』(後に『日本』と改称)の援助で一旦上京、天皇の要請で7月に学習院御用掛になったが、高知へ戻り短期間で辞職、天皇の復帰要請にも民権派の参加呼びかけにも拒否し続けた。なお、大同団結運動は翌明治22年2月に谷と因縁のある後藤が黒田内閣に引き抜かれたため分裂、谷は三浦・浅野長勲らと組んで8月に日本倶楽部を設立、黒田内閣の外相だった大隈の条約改正案にも反対する形で政治結社化を目論んだが、10月に改正の無期限延期による問題棚上げと内部対立から日本倶楽部は解散、政治結社化は失敗した。また、7月に養子乙猪に先立たれる悲劇にも遭遇している。
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