欧州旅行
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石岡亨は、1957年(昭和32年)6月29日、石岡家の次男として北海道函館市に生まれ、その後、一家は札幌市豊平区に転居した。線の細い兄を手紙で励ますなど、優しい子どもであった。大学は、日本大学獣医学部食品経済学科に進んだ。1980年(昭和55年)3月、彼は大学を卒業すると東京のアルバイト先で知り合った同じ年齢の友人とヨーロッパ旅行に出かけた。石岡は大学を卒業してすぐ就職するという、型にはまった生き方はしたくないと友人に語り、ヨーロッパに渡りパンとチーズづくりの技術を得たいという希望を持っていた。そうした石岡の考え方に共感した友人とともに大学卒業と同時に二人旅をすることになって、訪問地は石岡が決め、コースは2人で話し合って計画を立てた。 上野駅から特別急行列車で新潟駅まで移動し、新潟空港からアエロフロート機で旧ソビエト連邦のハバロフスクに飛んだのが3月28日であった。ここには1泊しただけで市内観光を手短にすませ、夕方発のシベリア鉄道に乗車し、1週間後、モスクワに着いた。1泊したのち、フランスのリヨンへ向かい、そこで3泊した。南仏マルセイユを経由してスペインのバルセロナに到着したのが、4月13日であった。バルセロナでは2泊し、珍しい白いゴリラがいるということで動物園へ行き、そこで偶然日本人女性2人と出会って、友人は3人(石岡と女性2人)を一緒に収めた写真を撮った。その後、女性たちとは別れ、友人と石岡は1か月後、リヨンのホテルで再会する約束をして同地で別れた。しかし、1か月後、石岡は約束のホテルには現れなかった。待ちくたびれた友人は1人で日本に帰った。 石岡と一緒に写真に写った2人の女性はいずれも、よど号ハイジャック事件実行犯の妻であった。一人は「よど号グループ」の指導者田宮高麿の妻森順子、もう一人は若林盛亮の妻若林佐喜子であった。高沢皓司は、よど号グループの男やその妻たちからの取材で、この2人がスペインを舞台に日本人拉致作戦を開始したのは1980年4月頃だったとしている。1979年暮頃から2人は初めて外国旅行に出かけ、ヨーロッパを中心に情報を集めながら下見をした結果、スペインを旅行の最終地点に選ぶ旅行客が多く、物価も安くて長期滞在に向いていると判断したのだろうという。一方、バルセロナからマドリードに向かった石岡は、宿舎先として選んだ"ホスタル・サンペドロ"で、スペイン語を学ぶためマドリードに訪れたばかりの留学生、松木薫と偶然出会っていた。
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欧州旅行
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「トマス・ピーター・アンダーソン・ステュアート」の記事における「欧州旅行」の解説
1890年、ヨーロッパ大陸を訪問中だったステュアートは、政府から、ベルリンへ赴き、ロベルト・コッホ博士の結核治療法について報告することを依頼された。この結果として綴られた報告は、非常に有意義なものとなった。ステュアートは、種痘が予防手段として有効であるとは考えなかったが、コッホによって、結核だけでなく、様々な病の非常に有効な治療法に繋がっていく可能性を含んだ、広大な研究領域が切り開かれたことを認識した。1891年に再度ヨーロッパを訪れた際、ステュアートはさらに調査を進めたが、コッホの治療法を失敗であるとする結論には達しなかった。オーストラリアに戻ったステュアートは、保健委員会のメンバーに加わることを要請され、1893年から1896年まで政府の医療顧問、保健委員会委員長を務め、この2つの職から年1030ポンドの報酬を得た。ステュアートが、大学の常勤職にとどまったままで、これらの公職に就いたことには、批判の声も上がった。この件に対処した公職に関する委員会は、ステュアートが極めて効率的に職務をこなしていたことを認めながらも、政府の公職に専念すべきであるとする判断を下した。ステュアートは委員長職を辞任したが、以降も終生、委員会のメンバーにとどまった。
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