2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職
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「ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー」の記事における「2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職」の解説
ロングフェローはまた、1年間程度の海外留学という条件付でハーバード大学のフランス語とスペイン語のスミス教授職 (Smith Professor of French and Spanish) を得た。ロングフェローが旅の途上、ロッテルダムにいた1835年、妻メアリーは流産の後に22歳で亡くなった。その3年後、ロングフェローはメアリーとの愛に着想を得て「天使の足跡」(Footsteps of Angels)を書いた。 ロングフェローは1836年にアメリカに戻り、ハーバードの教授職に就いた。ケンブリッジに移り住み、終生そこに留まることになった。ただし、夏の間だけはナハントで過ごした。この頃に詩集の刊行を始めた。1839年の「夜の声」(Voices of the Night)、1841年の「バラードと他の詩」(Ballads and Other Poems)である。「バラードと他の詩」には有名な詩「村の鍛冶屋」(The Village Blacksmith)が入っている。1842年にはドイツのライン地方に詩人のフェルディナント・フライリヒラートを訪問し、終生の交友を結ぶ。 ロングフェローは1854年にハーバードを退職し、著述に専念することにした。1859年にはハーバード大学から名誉博士号を受けた。
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