軍人から格闘家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:42 UTC 版)
「チャック・ノリス」の記事における「軍人から格闘家へ」の解説
1958年、18歳になったチャックはアメリカ合衆国軍に入隊した。本来は正義感から警察官になることを希望していたが、憲兵隊で警察任務に必要な技能が習得できると聞いて兵役を選び、アメリカ空軍の空軍警備隊(AP)に配属された。最初にまずテキサス州の新兵教育隊へと送られたが、訓練教官から本名について「カルロスなんて、スペイン語みたいな名前だな。英語では何にあたるんだ?」「だいたいチャールズが近いです」「よしそれじゃあ、お前はチャックと呼ぼう」と言われ、現在まで続くチャック・ノリス(Chuck Norris)という渾名が付けられた。教育隊で護身術として格闘技を学び、素質を示した。訓練後は在韓米軍に配属されて韓国に渡り、ソウル近郊の烏山空軍基地に赴任した。 1960年、柔道のトレーニングで肩を痛めて療養していた時、見事な足技を披露する韓国人の空手家と知り合い、柔道から空手に興味を移した。韓国で空手(唐手)はタンスー道(唐手道)(英語版)と呼ばれ、日本統治時代に松濤館流を学んだ者が多く、そのために足技が中心となっていた。基地の近くにある唐手道場に通って技を磨き、帰国時には有段者として黒帯を取得するまでになった。様々な格闘技を学んだ後も韓国での経験を大切にしており、後年に自身の流派(チャックノリス・システム)を創始した際に春谷道(英語版)(Chun Kuk Do)というタンスー道(Tang Soo Do)に由来する流派名を採用している。また兵役は銃の取り扱いに習熟する機会にもなり、特に拳銃については優秀な射手に与えられるマークスマン・リボン(英語版)を授与されている。軍隊で学んだ射撃と格闘技は共にアクション俳優として役立つ技能となった。 1962年、帰国後もしばらくはカリフォルニア州のマーチ空軍基地で勤務を続けたが、同年8月に軍を退役した。軍を離れた後は武道で身を立てることを考え、クボタンを創始した窪田孝行による国際空手道選手権(英語版)、アメリカ拳法(英語版)の創始者エド・パーカーによるロングビーチ国際空手選手権(英語版)、空手家及びキックボクサーのジョー・ルイス(英語版)による全米プロフェッショナル空手大会などに出場した。緒戦ではルイスや「アメリカ・テコンドーの父」と呼ばれるアレン・スティーン(英語版)らに敗れたものの、経験を得るにつれて勝利を重ねていった。 1967年、空手家のヴィック・ムーア(英語版)とテコンドーのスキッパー・マリンズ(英語版)を相次いで破り、S・ヘンリー・チョウ(英語版)が提唱した格闘技の全米オープンでも優勝するなど有力選手として注目を受けた。1968年、全米プロフェッショナル空手大会で優勝してミドル級王者の称号を得て、格闘技雑誌『ブラックベルト』(英語版)で「今年最高の格闘家」として特集が組まれている。武術家として知名度を上げる中で道場経営に乗り出し、現在に至るまで多数の弟子を育て上げている。映画俳優に稽古を付けることも多く、スティーブ・マックイーンが道場に通っていたこともある。
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