毒ガス戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「毒ガス戦」の解説
詳細は「第一次世界大戦における化学兵器(英語版)」を参照 ドイツ軍は防御側の有利を自覚して持久戦を覚悟していたが、東部戦線における攻撃計画の偽装をかねて、ベルギーの小村イーペル付近での攻勢を計画した。この町は1914年11月に行われた第一次イーペル会戦(英語版)においてイギリス軍が多大な犠牲を払って占領した場所であった。2日間の砲撃の後にドイツ軍陣地から風下に位置するイギリス軍陣地に向かって塩素ガスが散布された。黄緑色のガスにより窒息状態となった兵士たちは、パニックに陥って4マイルにわたる前線が崩壊した。このような成功を予期していなかったドイツ軍は目立った進撃をおこなわず、カナダ軍が前線に到着することで元の前線は回復された。第二次イーペル会戦は世界初の大規模毒ガス戦として記録されており、170トンの化学物質が使用され、5000名の兵士が数分の内に死亡したと推定されている。毒ガスの使用は1899年に制定されたハーグ陸戦条約違反であった。 2日後にも毒ガス使用が繰り返され、この時は3マイルの英仏側前線が後退した。この後英仏軍はガスマスクなどの防護手段を導入したため、毒ガスの成果はあがらなくなった。1年後の4月27日にイーペルの40キロ南で発生したユリュックの戦い(英語版)(Battle of Hulluch)ではアイルランド第16師団に対して大規模な毒ガス攻撃が行われたが、攻撃は失敗に終わっている。
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