毒ガス写真事件
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1984年(昭和59年)10月31日付朝日新聞朝刊の第一面大半を使い、「旧日本軍による毒ガス戦の決定的な証拠写真発見」と題した特大の大見出しと共に、山火事か野焼きのような煙が濛々と立ち上る大写しの白黒写真が掲載された。藤原は「日中戦争での化学戦の実証的研究を進めている元陸軍士官の歴史学者」と紹介され、写真を旧日本軍による中国での毒ガス戦と断定した。これに対し、産経新聞(1984年11月11日付)がただの煙幕ではないかとの疑問を示した。 当時産経のデスクであった高山正之は、すぐに記事にするように手配したが、部長も局次長も尻込みをしたと回想している。当時は朝日を頂点に新聞社同士が睦み合う慣行があり、朝日が他社ににらみを利かせていたためである。事実、当該記事が掲載されると、朝日の学芸部長が産経社会部にやってきて「朝日に喧嘩を売るつもりか! 朝日がその気になればこんな小さな新聞社はすぐにでもつぶせるんだぞ」と言ったという。また、朝日新聞OBの稲垣武は、この写真を持ち込んだ人物をプロモートしたのが、のちに調査研究室長・顧問となる今津弘であったこと、同期の整理部所属記者に「なぜあんな記事を載せたのか」と聞いたところ、お偉方からの売込みであり、しばらくペンディング状態であったが、紙面に空きがあったので載せたと答えられたことを回顧している。
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