毒ガスの島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 02:04 UTC 版)
「大久野島の毒ガス製造」を参照 この島では、昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)まで、太平洋戦争で使用するための毒性のガスが大日本帝国陸軍によって秘密裏に製造されていた。この時代まで島内には民家七戸・住人数十人がおり農耕を営んでいたが、毒ガス製造が始まった時に強制退去となった。 作られていた毒ガスの種類は血液剤、催涙剤、びらん剤、嘔吐剤の4種で、戦争末期には風船爆弾の風船部分も作られていた。毒ガスやそれに関する機器は終戦直後旧日本軍が証拠隠滅を図り海洋投棄し、その後進駐軍が島全体を接収し海洋投棄・埋設・焼夷剤で焼却するなどの無毒化処理が施された。 詳細は「大久野島の毒ガス製造#戦後処理」を参照 朝鮮戦争が始まると再びアメリカ軍が接収し、島内の建物を弾薬庫として用いた。彼らは1950年から1955年まで接収し続け、後にほぼ全島域を大蔵省(現・財務省)、灯台付近のみ運輸省(現・国土交通省)が所管することになる。島内では、施設放棄から半世紀以上経った現在でも内部が空になった巨大なコンクリート製の毒ガス施設はその姿を残し、いくつかが立入禁止区域に指定されている。 1947年米軍撮影。 1948年米軍撮影。
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