蔣介石との権力闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 23:20 UTC 版)
蔣介石が次第に軍・党で強力な権限を掌握していくと、次第に胡漢民はこれに反発を覚え始める。そして両者は、中華民国訓政時期約法の制定をめぐって衝突した。1930年(民国19年)、蔣は国民大会を開催して訓政時期約法を制定することを表明したが、胡は「総理(孫文)の著書では訓政時期における約法制定について言及されていない」などとして、これに反対する。孫文の遺教に従うべしとの理論上からの反対ではあったが、実態としては蔣のリーダーシップ強化に対する胡の抵抗であった。 立法院長の地位を盾に胡漢民は約法起草要求に応じず、ついに業を煮やした蔣介石は、1931年(民国20年)2月28日に胡を立法院長から解任し、南京の湯山に軟禁する挙に出る。これにより同年5月5日の国民大会で訓政時期約法が成立し、6月1日に公布されることになった。しかし蔣のこの強引な措置は、当然ながら胡支持派からの強烈な反発を呼ぶことになる。同年5月27日には、汪兆銘・孫科らが広州で国民党中央執行委員会非常会議を開催し、反蔣の広州国民政府樹立に至った。さらに満州事変(九・一八事変)が起きると、抗日のための大同団結の世論が高まるようになる。 結局、蔣介石は10月14日に胡漢民を釈放し、さらに南京・広州両派も再合流することになった。この際には、政治的妥協から蔣は国民政府主席を辞任、下野し、林森が後任主席に任ぜられている。その後も、胡は広州にあって国民党中央執行委員会西南執行部常務委員をつとめ、いわゆる「西南派」の中心的指導者として影響力を保ち続けた。1935年(民国24年)12月、国民党第5次全国大会で中央執行委員に選出されている。 1936年(民国25年)5月12日、胡漢民は広州にて脳溢血のため急死した。享年58(満56歳)。
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