蒋介石への接近と対立とは? わかりやすく解説

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蒋介石への接近と対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 08:46 UTC 版)

張静江」の記事における「蒋介石への接近と対立」の解説

1925年民国14年3月孫文死後は、張静江は、かねてから親交のあった蒋介石接近し、清党活動共産党排除活動)に尽力した南京国民政府成立した後の1927年民国16年7月全国建設委員会委員長に就任し、さらに初代浙江省政府主席兼任した同年10月、省政府主席地位は、いったん何応欽譲ったが(省政府委員としては留任)、1928年民国17年11月主席再任された。 張静江は、鉄道建設公道整備さらには電力事業など、孫文がかつて唱えた実業計画」の実現尽力し一定の成果をあげた。ただ、その一方で、これらの事業展開する資金調達するために、省社会への課税は、項目が多く幅広いものとなってしまい、負担大きなものであった。 さらに張静江は、蒋介石先輩格にあたることを自負していた。そのため、次第国民政府中央の法令に従わなくなり独断専行の省政に邁進してしまう。これは蒋との対立惹起することになった。ついに民国19年1930年12月4日国民政府中央の命令により浙江省政府改組され、張は主席から事実上罷免されてしまった。 一方全国建設委員会委員長としても、委員会実業部門権限次第剥奪されていく。1931年民国20年11月宋子文委員長とする全国経済委員会成立すると、全国建設委員会はますます有名無実となった。そして、1938年民国27年)には、全国建設委員会自体蒋介石命令により廃止されてしまう。失意のうちに張はニューヨークへ移住し事実上引退してしまった。 1950年民国39年9月3日ニューヨークにて病没享年74(満72歳)。

※この「蒋介石への接近と対立」の解説は、「張静江」の解説の一部です。
「蒋介石への接近と対立」を含む「張静江」の記事については、「張静江」の概要を参照ください。

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