蒋介石腹心の軍人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 03:21 UTC 版)
1926年(民国15年)5月、楊杰は程潜率いる国民革命軍第6軍総参議に任命されて北伐に参戦し、まもなく第6軍第7師師長となる。翌年、第6軍副軍長に昇進した。同年に第6軍が南京を攻略すると、総司令部淮南行営主任兼総予備隊指揮官に転じている。南京事件を起こして程潜が失脚し、8月に第6軍が第18軍に改組されると、楊が同軍軍長に起用された。北伐最終盤の1928年(民国17年)3月、軍事委員会常務委員兼弁公庁主任に抜擢され、翌月には第1集団軍総司令部総参謀長に昇進している。以後、楊は蒋介石直属の腹心とみなされることになった。10月、北平憲兵学校校長に任ぜられている。 1929年(民国18年)11月、楊杰は唐生智討伐軍の総指揮に任ぜられ、これに勝利後、洛陽行営主任兼第10軍軍長に転じた。翌1930年(民国19年)2月には長江要塞総司令に起用され、同年5月に中原大戦が勃発すると、第2砲兵集団指揮官、総司令部総参謀長を歴任して、蒋介石の勝利に貢献している。1931年(民国20年)11月、中国国民党第4期中央執行委員に選出された。 1932年(民国21年)1月、楊杰は陸軍大学校長に任ぜられ、後に校長に蒋介石が就任したため楊は教育長に移ったものの、現場の指揮は楊がとっている。翌年、軍政委員会北平分会参謀長、第8軍団総指揮に任ぜられた。9月、欧州軍事考察団団長として欧州各国を歴訪し、1934年秋に帰国、陸軍大学教育長に復任している。12月、国民政府軍事委員会参謀次長、防空委員会主任を兼任した。翌1935年(民国24年)4月、陸軍中将に昇進し、11月には国民党第5期中央執行委員に再選されている。
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