蒋介石への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/30 20:38 UTC 版)
1927年(民国16年)4月、蒋介石が上海クーデター(四・一二政変)を起こすと、李銘はこれを支持し、財政支援を展開した。同年、国民政府の公債基金保管委員会で李が主任委員に任命され、公債を発行して国民革命軍の北伐を支援している。また、浙江実業銀行董事長胡済生が病没したため、李が後任となった。翌1928年(民国17年)7月、華俄道勝銀行総清理処総清理員となり、10月には、中央銀行監事会主席に任ぜられた。11月、中国銀行董事長兼交通銀行董事となっている。1929年(民国18年)、中米合弁の上海電力公司と上海電話公司でアメリカ側顧問を務めた。 1932年(民国21年)、第1次上海事変勃発に際して、李銘は張公権(張嘉璈)らと上海金融界の強化のため、上海銀行業聯合準備委員会を結成し、李が主席となった。同年には杭州電力公司董事長に就任している。しかし1935年(民国24年)、中国銀行が改組され、宋子文が董事長になると、李銘や張公権は中国銀行の経営から駆逐されてしまった。日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、李は上海銀行公会理事長に任ぜられる。まもなく国民政府は上海を陥落させられるが、李は財政部長孔祥熙の許可を得て上海に留まり、銀行業の経営を継続した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権(南京国民政府)成立と共に、李銘は汪兆銘政権から指名手配されてしまう。李は上海アメリカ領事館の庇護を受け、翌年3月、渡米した。アメリカでも引き続き浙江実業銀行と上海電力公司の業務を担当し、さらに1944年にブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議では中国代表団顧問を務めている。また、張公権や陳光甫と協力して中国投資公司を翌1945年8月に設立した。
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